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2014年1月

2014年1月28日 (火)

1月28日 里山整備から再生へ 2番目の倉庫の解体進捗状況

今日は、強い南風が時折吹き、これ以上解体すると倒壊するかもしれないので、今日の解体は中止。  

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2014年1月27日 (月)

1月27日(里山整備) 淵田弥吉さんと2番目に解体する小屋の手順の打ち合わせ。

昨日から解体を始めた。この日小屋の外壁を取り除いたので、今後のスケジュールの調整と、解体する方向の確認を小屋の前で淵田弥吉さんと行った

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001_1024x683解体方向は、この写真の手前方向に倒した方がベストと判断した。 問題は、小屋の前に植わっている2本の椿の木が邪魔をしている・切り倒そうかとおもっていたら、淵田さんが、椿の木は、掘り起こしてもわけないよと・アドバイス。さっそく2本の椿を掘り起し移植をおこなった。

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010_1024x683手前のコンクリートの部分が初めに解体した小屋の土台部分

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2014年1月26日 (日)

1月26日(里山整備) 午後から2番目の小屋を解体開始

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1月26日 朝食中、孫のゆうた君の歯が抜ける

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1月25日から26日 孫たちの田舎での生活 ゆうた5歳・しょうた3歳

これまでは、例年になく寒い日が続いたが、今日は、南風に乗って3月下旬の暖かい日になった。  南風が吹き始めたので、田んぼで凧揚げを行ったが、しょうた君の連タコが強風で糸が切れ飛んで行ってしまった。{残念・ゆうた君のタコは、大空を勢いよく泳いでいた。

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2014年1月24日 (金)

古来、田んぼは、水を利用して人がつくってきた人工構造物

農業土木教育の変遷 農業土木教育は、明治の近代化の課程で近代的学制の施行が行われ、近代農業土木もこれまでの水田農業体系を踏まえて成長する制度的基盤が与えられて、欧米の科学技術を輸入しつつ、公的に教育研究する学制を築き上げていく。 前期農業土木は独自の水田農業体系をつくり上げたが、その知識体系のなかでも水利技術などが役人の世襲的な行政知識のなかに閉じ込められていて、近代的公教育のなかで一般化される必要があった。 欧米科学技術の輸入に基づく近代学制の創出期においては、日本的水田農業体系は視野の外に置かれていて、前期農水利の知識体系の継承については、武士の解体に伴い制度的には断絶することになる。ただしこの部分は実際のところ、農村の指導層あるいは水利組織等によって受け継がれていった。 札幌農学校は設立時マサチューセッツ農科大学をモデルにして基礎的学理を教授しつつ、極めて実践的な開拓指導者の養成を志向していた。当時の科目には、農業土木学あるいは土地改良学という名前は見出せないが、基礎的科学に加えて、測量学、土工学、経済学、農業・園芸学等もあげられ、全体としての性格は基礎科学を重視したアメリカ的開拓学の体系であり、いわば今日の農業土木の性格に近い面を持っていたのである。 札幌農学校より2年後開設される駒場農学校の初期の授業科目では、農業土木あるいは土地改良についての授業科目はほとんどなく、わずかに測量と土木工学が一年次にあげられるにとどまった。 札幌農学校は、その後、東北帝国大学農科大学(1907年)、北海道帝国大学(1918年)と拡充されていくが、アメリカ的開拓学の体系を日本独持の水田農業体系と結びつけて、開拓科学の体系を拡充していくことにはならず、次第に分化を進めて、一般の分化科学を並列させる高等教育機関に変わっていく。札幌農学校の持っていた農業土木的性格は、一方には土木工学に吸収され、他方には農業物理学に継承されている。そのため、近代農業土木学をつくりだす主流とはならずに終わった。 1886年、駒場農学校は東京山林学校と合流して東京農林学校となる。このときには、農業土木と土地改良論が科目としてあげられた。 1890年、文部省の憩い要請により、東京農林学校は帝国大学農科大学(後の東京帝国大学農学部)となる。これは農学を単科大学としては認めても、総合大学に属するものではないとしてきたヨーロッパ流の伝統を超えたものであり、日本政府の農学建設への意欲を示すものである。 1893年、農科大学に講座制が敷かれるが、農業土木学は農学の講座に属する授業科目にとどまる。 ところで当時、田区改正の気運は盛り上がっており、1887年から4年間にドイツに留学した農務官吏酒匂恒明は、1892年に「米作新論」を著し、外国と日本の土地整理の比較を行い、翌1893年には「土地整理論」を公刊している。この情勢のなかで学生時代を過ごし、1895年に帝国大学農科大学を卒業した上野英三郎は、大学院で耕地整理の研究を続け、耕地整理法制定の翌33年に、農学第二講座分担の講師に任命され、農業工学関係の講義を担当することになった。農業土木の大学教育への登場である。 このころ、ヨーロッパの土地整理をモデルにすることについて議論が起こり、横井時敬などによる日本の水田農業体系に照合する耕地整理や土地改良を論説も表れた。農商務省は1905年の耕地整理法改正を機に耕地整理を奨励、そして耕地整理技術者養成のための耕地整理講習制度を定め、東京高等農学校(東京農業大学の前身)に依頼して中学校卒業者を対象に講習を開始した。 翌1906年には、帝国大学農科大学にも依頼、第一種としては在学生または学士、第二種としては高等農林学校卒または高等工業学校土木科卒を対象とし、本格的な講習を行うようになった。これにより、耕地整理受講者という形で、農業土木技術者集団が形成されるようになった。これを基盤にして、1907年には耕地整理研究会が発足した。これは農業土木技術者集団のソサエティとなり、後の農業土木学会を生む母体となった。 耕地整理新法成立の翌々年(1911年)、東京帝大農科大学に農業工学講座が認められ、農業土木は近代的学制のなかに正式に位置を占める。ただし耕地整理事業そのものは地主による土地投資が中心であった。したがって、大規模に展開するものではなかったのである。そのため1914年、耕地整理法はまたまた改正され、湖海の埋立ておよび干拓を加えて、耕地整理とはいいながら、戦後の土地改良の範囲にほぼ近いものになった。 1914年から始まった第一次世界大戦は,工業の一層の成長、都市の拡大を促し、新たな米需要の増大をもたらした。米騒動(1918年)を契機として、政府は積極的な食糧増産政策に乗出し、1919年開墾助成法を発布し、開墾事業に利子補給を行うことを決めた。さらに1920年には、これまで控えていた朝鮮産米増殖計画を打ち出す。1921年には、臨時治水調査会が設けられ、農地防災の重要性が強調され、1923年には用排水幹線改良補助要項が打ち出された。これにより、灌漑排水事業は、国の補助を受けつつ、県営の事業として、中小河川改修も含めて大々的に行われるようになった。 このころ、文部省は特色のある高等農林学校(高農)の建設をめざしていたが、このような背景のなかで農業土木は注目され、1921年、新設の三重高等農林学校に農業土木学科が初めて設けられた。1922年には九州帝国大学農学部に農業工学講座が設置され、さらに1923年、京都帝国大学に農学部を新設する際には,新しく農林工学科が設けられることになり、1924年、農業工学第一、第二講座が設置された。東京帝大には1925年に、農業土木学専修が設置される。 この時までの農業土木の成長に常にかかわってきた上野英三郎は、1925年5月、職務中に倒れ急逝(上野の愛犬の話は忠犬ハチ公として知られる)。新しい体制、農業土木教育のスタートを後進に委ねる。上野の偉業を記念して農業土木学会は、1971年、農業土木学会賞のなかに上野賞を設けた。 昭和に入ると、一連の国庫補助のほか、1929年には開墾助成法が改正され、事業費そのものに補助が出されるようになった。同年には、耕地整理研究会を発展的に解消して農業土木学会が設立され(2007年に農業農村工学会へ名称変更)、農業土木学の体制が大学・学会の両面において整う。翌5年には、国営の農業土木事業が始まり、巨椋池干拓事業が着手された。時の蔵相高橋是清は積極的な公共投資政策を打ち出し、諸々の諸政策とともに1932年には救農土木事業を大々的に実施する。農業土木の役割が情勢のなかで大きな変化を遂げ、単に作物生育の場を整備する技術にとどまらず、農村振興そのものにかかわる事業となり、また地主の土地・利水条件整備に必要な技術にとどまらず、国民経済発展に向けての財政政策が必要とする事業へと変わる。 1935年、東京帝大の農業土木専修は正式に学科として認められ、1938年には九州帝大に農業土木学専修が認められた。1941年に、農地開発法が制定、農地の開発改良が強力に進められることが決まるとともに、実施機関として農地開発営団が設立する。農業土木技術者の養成は急務となり、同年に宇都宮高等農林学校、東京農業大学専門部に農業土木学科が設けられ、翌1942年には岐阜高等農林学校にも設立された。 現代農業土木の母体および発展の基礎条件は、戦前の昭和期に形成されたのであるが、戦争へ突入という事態のために、その開花は戦後に委ねられた。 戦後は農地開発営団が解散させられ、緊急開拓事業はこれまでの開墾、干拓、灌漑排水等に加えて集落計画、公共施設計画も必要とした。この期の農業土木は、1970年代以降に本格的に現れる農村計画、地域計画をいち早く体験している。折から農地改革の実施、その関連において1949年土地改良法が制定。土地改良事業の主体が地主から農業者に移されるとともに、土地改良事業への公共の援助が約束され、国営土地改良事業の実施も定められた。 さらにこれまで事業は耕地整理組合(農林省所管)、施設の管理は普通水利組合(内務省所管)と分裂していたのを、土地改良区に一本化された。これらは土地改良を国の施策として重視することを意味し、土地改良発展の制度的整備であった。 このような動きは、農業土木技術者養成にも反映し、終戦直前の盛岡農林専門学校・愛媛県立農林専門学校の農業土木科新設に続いて、終戦直後から学制改革期(1949年)に向けて、北海道大学農業物理学科(後の農業工学科)をはじめとして新たに4農専に農業土木科が誕生するが、戦後の学制改革は、学制そのものの変革を進め、1947年に教育基本法、学校数育法が新たに制定され、農専は次々と新制大学農学部へと移行していく。 関連項目[編集] 生物資源科学部 地域環境科学部 上野英三郎 植物工場 栽培漁業 促成栽培 造園施工管理技士[編集] 農業工学関連学科のうち、農業土木関連の学科や専攻等を専攻し所定の履行条件を満たした卒業者は、所定の実務経験年数を経て、造園施工管理技士の資格取得条件を得る。整理番号は2で、次の学科名で指定されている。旧制を含めた高等教育課程の学校の、農業土木学科、農業土木科、農業開発科、農業技術学科、農林工学科、農林土木科、さらには生産環境工学科、生活環境科学科、地域開発科学科、といった名称の学科が定められている。 「農業工学科」の名称の場合、東京農工大学・島根大学・岡山大学及び宮崎大学以外については、農業機械学専攻、専修又はコースは除かれる。 その他、学科名に関係なく、生産環境工学コース・講座・専修・専攻、農業土木学コース・講座・専修・専攻、農業工学コース・講座・専修・専攻の名称をもつ課程は、条件に定められている。 次の名称の学科についても、農業土木系の学科や専攻であるとして、条件に定められているが、※がある学科は、所定の履修状況の確認を必要としている。 地域環境科学科のうち特別カリキュラム履修者 - 茨城大学農学部 地域環境科学科 ※ - 大阪府立大学旧農学部・生命環境学部 地域環境工学科のうち農業土木コース、農山村環境コース - 弘前大学農学生命科学部 地域環境工学科 ※ - 京都大学農学部 地域生態システム学科(旧林学科)の環境・農業システム工学コース※ - 東京農工大学農学部 旧地域環境科学科のうち地域環境工学・地域環境(平成15年度以降に入学した者は※) - 弘前大学農学生命科学部 旧地域環境科学科のうち地域環境工学・地域環境計画学コース(農業土木プログラムで平成15年度以降に入学した者) - 弘前大学農学生命科学部 環境科学科 ※- 石川県立大学生物資源学部 環境システム学科 ※ - 宮城大学食産業学部 旧生産環境学科のうち生産基盤工学専攻 - 琉球大学農学部 旧生物生産学科のうち特別カリキュラムⅢ履修者 - 石川県立大学生物資源学部 旧生産環境情報学科 - 神戸大学農学部 旧農業生産工学科 - 神戸大学農学部 旧農業生物学科(農業生物学専修は除く) - 東京大学農学部 旧農業生産科学科 - 新潟大学農学部 旧農林総合科学科のうち生存環境科学講座 - 鳥取大学農学部 旧農業生産環境工学科のうち地域環境工学専修 - 岩手大学農学部 旧農林環境科学科のうち地域環境デザイン学講座 - 岩手大学農学部 共生環境課程のうち地域環境工学・農村環境デザイン学コース - 岩手大学農学部 共生環境学科のうち地域保全工学講座 ※ - 三重大学農学部 生産環境科学科のうち地域環境創造学コース ※ - 京都大学農学部 生物環境工学科(旧農業土木) - 日本大学生物資源科学部(旧農獣医学部) 生物資源学類(旧農林学類)のうち生物環境造成学専攻 ※ - 筑波大学第二学群 生物資源学科のうち地域環境工学専門教育コース、その他生産地域工学コースから生物生産学コース、生物資源経営学コース、生物工学コース、森林資源学コース、生物環境保全学コース) - 愛媛大学農学部 生物資源環境学科のうち生存環境学コース。旧環境共生科学コースー般プログラムや旧地域環境工学プログラムは、※ - 鳥取大学農学部 生物生産学科のうち環境情報工学系 - 佐賀大学農学部 生物生産システム学科のうち生産環境整備学講座 - 岐阜大学農学部 生物生産環境学科(旧畜産土木工学科) - 北里大学旧獣医畜産学部(現獣医学部) 畜産科学科のうち旧地域環境工学ユニット - 帯広畜産大学畜産学部 総合農業科学科で旧基盤整備学講座の履修者 - 岡山大学農学部 旧農業開発工学科(ただし農業機械学専攻は除く)- 宇都宮大学農学部 農業環境工学科で水土環境工学Aコース、水土環境工学Bコース。ほか食料生産システム工学コースと環境共生学コースは※ - 宇都宮大学農学部 農業工学系学科を設置する大学および短期大学[編集] 下記 学術(外部リンク) を参照。 学術(外部リンク)[編集] 日本農業工学会 農業農村工学会 農業機械学会 北海道大学大学院農学研究科・農学部農業工学科 帯広畜産大学畜産学部畜産環境科学科 岩手大学農学部共生環境課程地域環境工学コース 北里大学獣医学部生物環境科学科 弘前大学農学生命科学部地域環境工学科 秋田県立大学生物資源科学部生物環境科学科地域計画学講座 宮城大学食産業学部環境システム学科(旧宮城県農業短期大学) 山形大学大学院農学研究科生物環境学専攻 農学部生物環境学科地域境科学講座 筑波大学大学院生命環境科学研究科環境科学専攻・持続環境学専攻 筑波大学農林工学系 茨城大学農学部地域環境科学科 宇都宮大学農学部農業環境工学科 日本大学生物資源科学部生物環境工学科 千葉大学園芸学部緑地・環境学科 東京大学大学院農学生命科学研究科生物システム工学専修・地域環境工学専修 農学部6類(生物・環境工学専攻)研究科 東京農工大学農学部環境資源科学科 東京農工大学大学院 農学研究科 国際環境農学専攻 東京農業大学地域環境科学部生産環境工学科 信州大学農学部森林科学科田園環境工学コース農山村環境学講座 新潟大学農学部生産環境科学科農業工学コース 石川県立大学生物資源環境学部環境科学科 岐阜大学応用生物科学部生産環境科学課程環境生態科学コース 三重大学大学院生物資源学研究科・生物資源学部共生環境学科地域保全工学講座 滋賀県立大学環境科学部生物資源管理学科 京都大学大学院農学研究科地域環境科学専攻/農学部地域環境工学科 大阪府立大学 生命環境科学部/生命環境科学研究科 神戸大学大学院自然科学研究科/農学部食料環境システム学科生産環境工学コース 近畿大学農学部環境管理学科 岡山大学環境理工学部環境管理工学科 岡山大学農学部総合農業科学科環境生態学コース 鳥取大学農学部生物資源環境学科生存環境学講座 島根大学生物資源科学部地域開発科学科 山□大学農字部生物資源科学科地域環境情報科学講座 愛媛大学農学部生物資源学科地域環境工学専門教育コース 高知大学農学部農学科流域環境工学コース 九州大学農学部生物資源環境学科生物資源生産科学コース地域環境工学分野 大学院生物資源環境科学府 生産環境科学専攻 鹿児島大学農学部生物環境学科 琉球大学農学部地域農業工学科 国の研究機関(外部リンク)[編集] 独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 農村工学研究所 独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 生物系特定産業技術研究支援センター 農業機械化促進業務(通称農業機械化研究所) [隠す] 表・話・編・歴 テクノロジー 工学 工学の一覧 · 工学管理 · 工学技術 · 農業工学 · 音響工学 · 生物化学工学 · 生体工学 · 医用生体工学 · 生物工学 · 化学工学 · 土木工学 · 衛生工学 · 計算機工学 · 制御工学 · 低温物理学 · 電気工学 · 電子工学 · 環境工学 · 食品工学 · 遺伝子工学 · 機械工学 · メカトロニクス · 金属工学 · 原子力工学 · 海洋工学 · 地質工学 · 光工学 · ソフトウェア工学 · システム工学 · 交通工学 · 航空宇宙工学 · 自動車工学 · 船舶工学 · 輸送工学 · メディア通信工学 · 織物工学 · 石油工学 · 電波工学 · 無線工学 · 構造工学 · 建設工学 · バイオメカトロニクス · セラミック工学 · 鉱山工学 · オントロジー工学 · ネットワーク工学 · 情報工学 - 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2014年1月20日 (月)

1月20日(月)(里山整備)玄関前に2台の駐車スペース完成・農機具倉庫解体開始。

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034_1024x683 外壁をはいだ状態でライティングを行った・きれいな骨組みが浮かびあがった。

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055_1024x683_2この倉庫を解体・撤去する計画だが、きれいな骨組みは残した方が良いかも。

2014年1月19日 (日)

1月18日 小杉さんの持ち山・太郎山へ その帰りに伊豆島の田んぼビオトープの様子を(そろそろトウキョウサンショウウオが山から下りてくる)

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007_1024x683_2太郎山入口

 

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015_1024x683_2この館山道脇にある塔は、ほたる野の小杉邸からは真南に見える。

 

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026_1024x683_2伊豆島・田んぼビオトープ入口

 

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024_1024x683トウキョウサンショウウオ捕獲トラップ

 

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029_1024x683中尾の家・洗い場の小屋改修後・裏山が良く見えるようになった。

 

030_1024x683_2この日、倉庫前の石山を取り除き、玄関前に車が入りやすくした。

 

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2014年1月16日 (木)

1月12日 平野勇さん中尾の家から野べ送り・納骨

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1月11日 平野勇さんのお通夜

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2014年1月11日 (土)

年末の29日にお見舞いに行った平野勇さん81歳が1月8日の朝、奥様と娘さんに見守られて、安らかな眠りについた。合掌

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通夜の儀・1月11日午後6時から。 葬儀会場は同じ場所で1月12日昼の12時から。 君津市戸崎梶開2626-7 虹のホールおびつへリンク

 

http://www.copce-chiba.com/saijyo/n-obitsu.html

 

2014年1月 5日 (日)

1月5日 小杉邸・巨大デッキ工事進捗状況

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戦国大名 里見氏の居城久留里城 孫たちと訪ねる 500年前の上総の地に思いを寄せる。(資料はネットより転載)

中尾の家から車で25分ほどのところに久留里城はある。{中尾の家の西側にある丘は、かつて里見氏の出城跡で、小櫃川河口一帯を望み・東京湾を隔てて富士山が正面にきれいに見える。

Images_2 浮世絵・木更津港から富士山を望む・グーグル画像検索より転載

Images_4  小櫃川河口から富士山を望む・グーグル画像検索より転載

Images_6木更津から富士山を望む・東京湾を隔てて、北条氏の小田原まで見える。 グーグル画像検索より転載

中尾の家と田んぼのすぐ前に中尾城址があるPhoto_5

グーグルアースで見る・里見氏の活動範囲・富士山・小田原・木更津・久留里の位置関係

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 久留里城は、戦国時代後期,房総の覇者、里見氏6代(よしたか)は久留里城を本拠地とし、越後の上杉謙信たちと同盟を結び、小田原の北条氏と対立しますが、一時北条氏に城を奪われた(1564年)が、1567年三船山で北条氏に激戦の末勝利し(これ以後北条氏は房総から手を引く)、久留里城を奪還

 1574年 里見氏6代(よしたか)は他界し、子義弘が久留里城主になる。

1578年 義弘他界・これ以後里見家の家督争いが続く。

1590年 里見家 上総領没収・天正18年(1590年・秀吉、小田原・北条攻め)、秀吉、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収(安房の国のみに)。

その後、徳川の世になり,重要な拠点であった久留里城には、大須賀・土屋・黒田の各大名が入城し、近世城郭として整備され明治を迎えた。(君津市律久留里城址資料館の案内資料から改変。)

家康と外様大名・里見氏  この項目はネットからの転載

 

安房の里見氏は、清和源氏新田義貞の子、義俊が上野国碓氷郡里見郷(群馬県群馬郡榛名町里見)にあって、その所領を名字にしたのが始まりであるといわれている。その後、義実が、嘉吉元年(1441)の結城合戦に参戦して、敗走、三浦半島から安房白浜(安房郡白浜町)に上陸し、安房の豪族・安藤景春(平群を支配)のもとに身を寄せた。この義実が、房総里見氏の祖であるという。

 

文安2年(1445)6月には、義実が、神余氏(安房郡を支配)と丸氏(朝夷郡を支配)を手勢に引き入れ、安西氏を降し、さらに東条氏(長夷郡を支配)の金山城(鴨川市金山の金山ダム入り口の北側の山)を落とし、安房四郡の平定に成功した。ここに「房総の名族・里見氏」の基礎が築かれた。

 

9代・義康のときの天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原城北条氏の征討に参戦したが、途中、三浦半島の侵略に手間取り、参戦が遅れたことから秀吉の怒りをかい、上総、下総、の領地を没収され、義康の支配地は安房一国(9万2千石)だけとなり、家康に属することになった。

 

秀吉から関八州を与えられた家康は、8月1日、江戸城に入り、 15日には、家臣の諸将を関東各地に配置した。中でも家康は、里見氏を特に警戒していたようで、徳川四天王の1人であり、”家康に過ぎたるもの”と称されていた本多中務大輔忠勝を上総大多喜に入城させた。

 

慶長5年(1600)5月の関ヶ原の戦いに参戦した義康は、帰陣後その功が認められて、家康から常陸鹿島郡内に3万石の加増を受け、合わせて12万2千石を領有することになった。その義康も慶長8年(1603)11月16日、31歳の若さで他界した。遺領を継いだのが、子の梅鶴丸(当時10歳)で、慶長11年(1606) 11月15日に、将軍・秀忠の前で元服し、1字を賜って忠義と称した。

 慶長16年(1611)、18歳となった忠義は、相模小田原城主・大久保相模守忠隣の長子加賀守忠常の娘を室として迎え入れた。

 

こうして外様大名である里見氏は、徳川譜代の重臣である大久保氏、さらには徳川氏とのつながりができ、再起を目指そうとしたわけである。

 しかし、家康にとっては、江戸の”お膝元”に何時までも12万石を領する外様大名を放置しておくわけにはいかず、手が打たれていくことになる。結果的には大久保忠隣の嫡子忠常の長女との婚姻が、里見氏滅亡の原因となってしまうのである

この項目はネットからの転載

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084_1024x683天守閣のすぐ下に水量豊富な井戸が当時からある。

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里見氏関係追加資料・ネットより転載

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Satomi_k_3 里見氏 二つ引両 (清和源氏新田氏流)

 里見氏は清和源氏新田氏流であるが、新田義重の三男義俊の後裔であることから、大新田氏流といわれている。義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み、はじめて里見氏を称した。とはいえ、戦国大名としての里見氏といえば、ふつう安房の里見氏のことをさすので、安房にはじめて住むようになった義実が安房里見氏の祖とされている。

安房里見氏の誕生  安房移住のきっかけは、江戸時代中期以後に書かれた『里見代々記』等の軍記物によれば、里見竹林二郎義秀から数代のちの里見家基は鎌倉公方足利持氏に仕えた。持氏が「永享の乱(1438)」で敗死したあと、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して幕府に敵対した結城氏に加担して結城城に籠城した。いわゆる「結城合戦」で、家基は結城城い籠城したが嘉吉元年(1441)の落城のときに戦死した。

 結城城落城に際して嫡子義実は、城を逃れて相模の三浦から海上を安房の白浜に渡った。これが、房総里見氏の始まりだという。義実が安房国に上陸した当時、安房国内には戦乱がうずまいていた。すなわち、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が、互いに隙をうかがって睨み合っていたのである。

 安房郡を領していた神余氏は家臣山下定兼の叛乱にあって滅亡し、これをみた安西・丸の両氏が山下定兼を攻め滅ぼした。そのあと、安西・丸の両氏が所領分配のことから争いとなり、安西氏は丸氏を滅ぼした。その結果、丸・神余の残党は白浜にいた義実を大将に頼んで結集した。義実は喜んで、軍兵を率いて安西氏討伐に向かい、安西氏は義実に降伏した。

この余勢をかって義実は東条氏も攻め降して、白浜城を本拠に安房一国の支配者に成長したのだという。いくらかの真実はあるのだろうが、相当に伝説的な話といえよう。他方、『北条五代記』等では、安房に逃れた義実は安西氏に寄食して小禄を受けていたが、その孫義通のとき安西氏の部将として神余・丸・東条氏らを滅ぼし、ついには主家安西氏をも押領して安房一国を統一したとしている。  

五代記の説の方が真実に近いように思われるが、いずれにしても根拠がない話なのでにわかには信じることはできない。結局のところ、安房里見氏の誕生は謎に包まれているとしか言えないようだ。

 ところで、里見氏と並んで安房・上総の戦国時代に活躍した、上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将は、いずれも他国から入ってきて安房に勢力を築き上げた者ばかりである。かれらが勢力を伸張した背景は、室町中期の惣領制の崩壊によって安房は旧来の豪族による支配が崩れ下剋上の最中にあったことに求められよう。このような情勢におかれた安房に入ってきた里見氏の祖は、情勢をたくみに捉えて安房一国を統一したものであろう。 関東の争乱  関東の政治の中心であった鎌倉府が滅亡した永享の乱、反上杉派の関東諸将が結集して叛旗を翻した結城合戦が終熄したあとの関東は管領上杉氏の力が強大化した。上杉氏の専制を嫌う関東の諸将は鎌倉府の再興を幕府に願い、それに上杉氏も同調したことで幕府もそれを許した。

そして、持氏の唯一の遺児永寿王丸が許されて、将軍義成の一字を賜って成氏と名乗って新公方となった。ところが新公方成氏は父持氏や兄たちに加担して没落した結城氏らを再興したため、それに反対する管領上杉憲忠と対立、ついには憲忠を謀殺したことで「享徳の乱」が起った。そして、この享徳の乱が、「応仁の乱」に先がけて関東を戦国時代にたたき込んだのである。以後、関東は公方派と管領派に分かれて合戦が繰り返された。

 緒戦は公方方が優勢であったが、幕府は管領上杉氏を支援する立場で乱に介入し、駿河守護今川氏らに命じて成氏追討の軍を発した。敗れた成氏は鎌倉を失い古河に逃れ「古河公方」と呼ばれ関東戦乱の一方の拠り所となった。乱は二十年余にわたって続き、里見氏は武田氏らとともに公方方に属して行動した

。 文明十四年(1482)、越後守護上杉房定男らの尽力が実って、「都鄙の合体」と呼ばれる古河公方と幕府との和睦が成立した。

 ところが、間もなく関東管領山内上杉氏と一族の扇谷上杉氏とが対立するようになった。一方、古河公方家でも成氏のあとを継いだ公方政氏と嫡男高基の父子間で対立が起こり、関東は慢性的な戦乱状態が続いた。

房総では、永正三年(1506)に扇谷上杉氏の重臣・三浦道寸が相模から渡海し砦を構え、足利政氏の勢力と上総の赤興や下総千葉荘の井花で合戦が行われた。やがて、足利政氏の勢力が弱体化し、政氏は下野小山氏のもとに逃れ、高基が古河に入城し事実上古河公方となった。

 これら旧勢力同士が抗争する間隙をぬって、伊豆の掘越公方を滅ぼし韮山を根拠とした新興の北条早雲が台頭し、関東進出を企図する早雲は大森氏を逐って小田原城を奪取して相模に進出すると、三浦氏と戦って鎌倉を占拠、永正十三年(1516)には三浦道寸を新井城に滅ぼし、対岸の房総へ侵攻するまでに成長した。

早雲はまず上総の茂原に侵攻、翌年には上総真里谷武田氏の求めに応じ、三上佐々木氏の真名城を攻略した。これに力を得た真里谷武田氏は、かねてより対立していた小弓城の原氏を攻略せんとして、古河公方政氏の子義明を大将に小弓城を攻め落とすことに成功した。

 その後、小弓城には義明が入って「小弓公方」となり、武田氏の力を背景として上総に勢力を築き、武蔵・下総にまで勢力を拡大していった。この状況に危機感を抱いた古河公方高基は、永正十六年(1519)、下総弥富城を拠点に義明方の拠点である上総の椎津城を攻撃。同時に早雲の子氏綱が茂原へ侵攻、上総の佐貫大乱が起こった。義明方はこれらに対抗して和良比城に里見義通を配備し、関宿城攻撃を命じている。 里見氏の勢力伸張と内訌  義通は、安房里見氏として史料のうえから実在が確認できる人物である。すなわち、永正五年(1508)安房鶴谷八幡宮を造営したことが残された棟札から知られ、棟札には公方政氏の武運長久を祈願しており、義通が古河公方に属していたことが分かる。

また、八幡宮の造営を義通が行ったことは、安房国衙を掌握していたことを示している。ついで、永正十一年、鶴谷八幡宮の別当寺である那古寺の鐘を再鋳したことが知られる。 これらのことから、里見氏は義通の代にり、安房一国支配を実現していたとみて間違いないだろう。永正十二年(1515)には、小弓義明を奉じて下総に侵入し高城氏と合戦に及んでいる。

義通は永正十五年(1518)に没したが、嫡子義豊は五歳の幼児であり、代わって弟の実堯が惣領となった。しかし、これは義豊が成人するまでのいわばリリーフ的なものであった。

 大永四年(1524)、北条氏綱が江戸城を奪取、江戸城を奪われた扇谷上杉氏は房総勢と結び後北条氏に抵抗、また、真里谷武田氏は後北条氏と手を切り、里見実堯らとともに義明の命を受け江戸城下の港湾都市・品川や今津などを海上から攻撃した。実堯は六浦から鎌倉に攻め入り、後北条方の玉縄城下の戸部川畔で一戦を交えている。その二年後の、大永六年(1526)にも小弓義明の命で実堯は鎌倉に侵攻し、鶴岡八幡宮を焼き宝物を奪ったという。大永四年と大永六年の三浦半島侵攻は一つの事件であった可能性もある。

 実堯は里見氏の当主として小弓御所を擁して活躍を示したが、義豊が成人しても家督を譲らなかったため、天文二年(1533)、それを恨んだ義豊が実堯の拠る稲村城を急襲した。しかし、実堯は吉日を選んで義豊に家督を譲ろうと思っていたところを襲われたため防戦する間もなく自害して果てた。

こうして、義豊は里見氏の惣領職を奪い返したが、この乱は、鎌倉にまで侵攻しながら成果を維持できなかった実堯に配下の領主たちが不満をもち義豊を唆したのだとする説もある。実堯の死に際して城を脱出した実堯の嫡子義堯は義豊の追及を逃れて身を潜めた。

 その後義堯は、父の仇義豊を討つために宿敵であった後北条氏と結び、翌三年、その援助を得て犬懸の合戦で義豊軍を破り、稲村城に逃れた義豊を自害させた。この里見氏の内訌は一族・家臣も巻き込んだ内乱となり、里見氏の嫡流は断絶し義堯が里見氏の家督を継ぐことに成功した

翌天文四年十月、北条氏綱が河越城の扇谷上杉朝興を攻めると、義堯は後北条氏から前年借り受けた援助に対しての返礼として加勢軍を派遣した。 ・里見氏が拠った館林城祉に復興された天守閣 小弓御所と後北条氏の対立  話は前後するが、天文元年(1532)、北条氏綱は鶴岡八幡宮の造営を計画した。

氏綱はこの造営を契機として、関東において政治的優位に立とうとした。氏綱は造営に当たって関東の将士に協力を求めた。これに従うことは後北条氏に服従することになり、反対すれば八幡宮に弓を引いたといわれる。そこが氏綱の付け目であり、後北条氏に対抗する関東諸大名は苦しい立場となった。

 氏綱は協力の使者を下総小弓にも派遣した。小弓は真里谷武田恕鑑の力を後楯に下総・上総をおさめる小弓御所足利義明の居館であった。

このころ恕鑑は氏綱に江戸城を追われた扇谷上杉朝興に味方して氏綱と対立中であり、小弓義明も、義明の勢力拡大をおそれる兄の古河公方高基が氏綱に近づいていることから、後北条氏とは険悪な関係になりつつあった。  

このような、小弓御所義明、武田恕鑑に、氏綱は協力を呼び掛けたのである。小弓義明、武田恕鑑、房州の里見義豊らは協力を拒否したため、房総勢と後北条氏との対立は明確となった。

このような天文二年に、義豊は叔父実堯を殺害したのである。義堯は北条氏綱に援けを求め、氏綱もまた房総攻略の好機到来として義堯を援助したのである。義堯は氏綱の支援を徳として後北条氏に従うようになった。

 このころ、上総真里谷武田氏では、武田恕鑑が亡くなり、そのあとをめぐって子の信隆・信応の兄弟が家督争いを起こした。信隆には後北条氏が、信応には小弓公方義明が味方した。

そして天文六年、、義明は信隆攻撃を決し、義堯にも参戦を命じてきた。これを断ると小弓公方の大軍を迎え撃つことになり、窮した義堯は小弓義明方に転じて信隆を攻撃した。氏綱は信隆を援助しようとしたが、力及ばず、信隆は落居し、里見義堯は後北条氏と袂を分かつことになったのである。

 やがて、小弓公方義明は、古河公方攻撃を目論み、関宿城攻撃のために国府台の要塞へ陣を進めた。一方、古河公方足利晴氏は後北条氏に義明追討を命じ、天文七年(1538)、第一次国府台合戦が勃発した。結果は、北条氏綱の大勝利で、義明は戦死、子の頼純らは安房に逃れた。

この戦いによって馬加千葉氏、原氏、武田氏ら、房総諸豪のほとんどが北条氏に従属するにいたった。里見氏は国府台合戦で敗れたものの里見軍は致命的な損傷をまぬがれており、義堯にとっては目の上のたんこぶであった小弓御所が滅んだことで、版図拡大がしやすくなったことも事実であった

里見氏の勢力拡大

 このことから、里見氏は負け肥りをしたとするものもあり、国府台の合戦に小弓御所義明を敗退させて滅亡に追い込んだのは後北条氏ばかりではなく、義明に味方した里見氏ら上総諸将も一役かったとしている

たしかに、第一次国府台合戦後、西上総に深く侵攻した後北条氏は上総武田氏の旧領をほぼ掌握、上総に強い影響力を発揮するようになり、上総の諸将もは後北条氏になびくようになった。しかし、里見氏は決定的敗北を蒙ったわけではなく、その実力も温存されていた。そして、着々と失地回復に努め、勢力を拡大していったのである。

 天文八年二月、義堯は後北条方の上総有吉城を攻撃したが、翌年には後北条方の水軍が里見氏の本拠安房を攻撃してきた。十年から十一年にかけて義堯は本拠を安房の稲村城から上総の久留里城に移すとともに、麾下の正木時茂・時忠兄弟に命じて勝浦城を攻略している

こうして、義堯は着々と下総侵攻の布石を打っていった。このような里見氏の活動に対して、天文十二年、氏綱のあとを継いだ北条氏康は上総大多喜城主の武田朝信に働きかけて上総の笹子城を攻略させた。

義堯もただちに笹子城の近くにある中尾城を正木時茂に攻め落とさせ、さらに時茂は大多喜城を攻撃して武田朝信を討ち取り、大多喜城を後北条方から奪い取っている。

 房総を舞台に里見氏と後北条氏の抗争は続き、里見義堯は手強く戦い後北条氏の上総侵攻に立ちはだかった。

そして、天文十四年両上杉・古河公方の連合軍八万騎が河越城を攻撃たが、氏康は寡勢をもって連合軍に勝利し、扇谷上杉氏を滅ぼし管領上杉氏を居城に追い払い、古河公方を屈服させるに至った。平井城に逃れた管領上杉憲政はその後も余喘を保ったが、ついに天文二十一年、越後の長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。

 後北条氏が着々と勢力を拡大していくのに対して、里見氏の勢力も天文二十三年(1553)から弘治元年(1555)ころに絶頂に達したといわれる。とはいえ、管領山内上杉氏を追放した後北条氏は関東に君臨するようになり、伊豆・相模に加えて武蔵を制圧し、上野・下野・房総にまで睨みをきかす存在になっていたのである。

いくら里見氏が全盛にあるとはいえ、里見氏単独で戦える相手ではなくなっていた。そこで里見氏は、関東管領上杉憲政を庇護し関東管領職と上杉名字を譲られた長尾景虎と結んで後北条氏に対抗しようとした。

上杉謙信の関東出陣

 天文二十三年(1554)里見氏は長尾氏と「房越同盟」を結び、これが長尾景虎の関東出陣をうながす要因ともなった。一方、房越同盟に対して北条氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川義元に呼びかけて甲駿相の「三国同盟」を締結した。

 北条氏康は三国同盟を後楯として、この年の十一月、北条綱成とともに二万の軍を率いて里見氏の本拠久留里城を包囲した。対して、里見義堯・義弘父子はこれを撃退し勇名を近隣にあげた。攻略に失敗した後北条軍は翌弘治元年にも久留里城に押し寄せたが、成果をおさめることができなかった。

翌二年になると、義弘を大将とする里見勢は兵船八十余を仕立てて三浦半島を襲撃し後北条水軍を撃破し鎌倉を制圧した。

 長尾景虎が本格的に関東の諸将に陣ぶれをしたのは永禄三年(1560)のことで、これに対して北条氏康は八月、大軍を率いて里美義堯・義弘父子の立て籠る久留里城を包囲・攻撃してきたが、景虎の越山を知った氏康は久留里城の包囲を解いて武蔵松山城に引き上げた。関東に入った景虎は、沼田城・厩橋城を落し北関東を席巻すると厩橋城を本拠とした。厩橋で越年した景虎は翌四年三月、十一万の大軍を率いて小田原城に立て籠る北条氏康を攻めた。

 このとき、義堯の子里見義弘が軍を率いて参加し謙信に謁見した。小田原城の堅守に長陣を嫌った景虎は囲みを解くと鎌倉に入り、鶴岡八幡宮において上杉憲政から譲られた関東管領職の就任式を執り行った。そして、同時に譲られた上杉名字を名乗って上杉政虎と改めた(以下、謙信で表記統一)。

以後、上杉謙信と謙信に味方する里見氏は、古河公方の継承問題も含め各地で後北条氏と対立することになる。謙信は連年のように関東に兵を出し、後北条氏と合戦を繰り返した。永禄五年、北条氏康が武田信玄と連合して武蔵松山城を攻撃した。謙信は里見氏に救援を要請し、義堯もそれに応えて出陣したが救援もむなしく松山城は落城してしまった。

第二次国府台の合戦

 謙信の要請をいれ安房・上総の軍を率いて下総に出陣した義堯父子は、岩槻城主の太田三楽資正と連絡をとり後北条軍との決戦を企図した。この情勢を、江戸城代の遠山氏からの急報で知った氏康は早速行動を起こした。このとき、謙信は常陸土浦城の小田氏治を攻撃中であり、氏康は電撃作戦による短期決戦を行うことで謙信に背後を突かれることを回避しようとしたのである。

 一方、合戦を前にして里見・太田連合軍は、江戸城にあった太田資康に調略の手を伸ばした。資康は道灌の曾孫にあたる自分が城主にもなれないことに不満を抱いていた。氏康は太田三楽と密議をこらし、北条氏康・氏政らを国府台におびき出してその背後から江戸城を攻めるという計画を練ったのである。

しかし、資康の密議は露見し、資康は江戸城を脱出して岩付城の太田三楽のもとに逃れた。ここに至って資正は里見義弘に出陣を要請しみずからも国府台に出陣して、後北条氏を迎え撃とうとした。翌七年(1564)正月、北条氏康・氏政父子らと太田・里見連合軍は、江戸川を挟んで対峙した。

 後北条勢は、北条綱成を先陣として松田憲秀、そして本隊の氏康・氏政父子、後陣に北条氏照・氏邦、大道寺直家ら総勢二万余騎を動員した。対する連合軍は国府台上に陣取り、一部を国府台の下に展開していたが後北条勢の到着を確認すると、台上に引き揚げていった。

これを見た遠山・富永勢は一気に川を押し渡り台地の下まで攻め寄った。この様子を見た里見方の正木大膳亮・同弾正左衛門らが、坂上から攻め下ってきた。たちまち、後北条勢は大混乱となり、遠山綱景・景久父子、富永政家をはじめ山角四郎左衛門・中条出羽守ら名だたる武将が次々と戦死した。里見方は敗走する後北条勢を追撃し、それを阻止しようとする北条綱成勢も一蹴、日暮れとともに両軍は兵をひいた。

 緒戦は連合軍の大勝利となり、連合軍は勝利に奢って酒盛りをはじめた。これを察知した後北条方は、奇襲をもって連合軍の背後から襲撃しようと策を練った。そして、密かに兵を手配りした後北条軍は折から降り出した小雨のなかを一気に連合軍をめがけて突撃した。

不意を討たれた里見・太田らは、防戦につとめ後北条勢を押し返すまでに奮戦した。しかし、後北条氏本隊の氏政・松田・笠原らが突進してきたことで、ついに連合軍は押し切られ負け戦となった。義弘は戦線から脱出し、資康も傷を負いながら岩付方面へ落去、正木大膳亮・同弾正左衛門らは討死した。結局、里見・太田連合軍は五千三百余人、後北条方は三千七百余の戦死者を出す大激戦となった。

 かくして戦いは後北条氏の勝利に帰し、勝ちに乗じた後北条氏は敗走する里見氏を追撃して椎津城を落し、ついで多賀氏の守る池和田城を落とし、さらに小糸城を落し上総高根郷まで進撃した。そして、里見氏の本拠である久留里城、佐貫城の近くまで迫ったのである。このとき、里見氏の重臣で勝浦城主の正木時忠は後北条氏に通じた。しかし、後北条氏の背後には関東在陣中の上杉謙信の軍もあったため、氏康は占領した城に守兵をおいて軍を引き上げていった。

後北条氏の勢力拡大

 国府台の合戦に上杉謙信が参加できなかったことが、里見・太田連合軍が敗北した大きな要因であった。しかし、謙信は小田氏を攻撃中であり、兵を国府台に向けることができなかった。また、太田資康の密議が露見して連合軍は予定よりも早く行動せざるを得なかった。そして、何よりも謙信が動けないうちに決戦にもちこんだ氏康の決断こそが後北条氏に勝利をもたらしたといえよう。こうして、着々と勢力を培ってきた里見氏は一大蹉跌に見舞われたのである。

 永禄九年、上杉謙信が後北条方の原胤貞が拠る臼井城を攻めたが、攻略することはできなかった。こうしたなか、北条氏康は里見氏の息の根を止めるべく、佐貫城の北にある三船山に砦を築き里見氏の攻略を狙った。対する里見氏は三船山砦の奇襲を画策し、それを察した後北条方の守兵は小田原に援軍を頼み、北条氏政は三万の大軍を率いて三船山に着陣した。

対する里見義弘は虚空蔵山に着陣し、三船山の北方の八幡山に正木大膳を配置、正木憲時が八千の軍勢を率いて佐貫城を進発、正面から仕掛けて敵を障子谷の深田に誘い込み身動きが取れなくなったところを正木大膳らが襲撃し、岩槻城主太田氏資らを討ち取るなど里見氏は後北条氏を一方的に撃ち破った。この三船山合戦の結果、後北条氏の影響力は大きく後退し里見氏がふたたび上総に進出、さらに下総へ侵攻して失地回復につとめた。

 しかし、関東の情勢は謙信率いる越後勢が関東にいる間は後北条氏が頽勢となり、謙信が越後に帰ると後北条氏が勢力を盛り返すというイタチごっこが続いたが、上野の由良氏や厩橋城将の北条氏らが後北条方に転ずるなどして、次第に後北条氏の優勢に展開するようになっていった。

一方、武田信玄が駿河に侵攻を開始したことで甲駿相同盟が崩れ、永禄十二年、ついに上杉謙信と北条氏康との間で越相同盟が成立した。この同盟では里見氏の扱いが焦点となったが、里見氏は上総の主導権を確保することができた。

 天正二年(1574)、反後北条氏の旗頭であった簗田氏の関宿城が後北条氏に落とされ、あらためて後北条氏による本格的な房総侵攻が始まる。茂原・一宮周辺や上総万喜城を巡る攻防が繰り広げられ、東金、土気の酒井氏が後北条氏に属し、また後北条氏の山本水軍が里見水軍を破り江戸湾の制海権を掌握、天正五年、ついに里見氏は講和に応じざるをえなくなり、里見氏は上総から大幅な後退を余儀なくされた。

万喜城主土岐氏との死闘

 房総の戦国時代の強豪に、万喜城に拠った土岐氏がいた。美濃守護土岐氏の一族で、美濃の戦乱を逃れて房総に流れてきたのだという。土岐弾正少弼頼房は、里見義実の上総侵攻戦に際し義実から篤い信頼を得て、安房勢の尖兵として上総夷隅郡に進出し、万喜城を築き四周に武威を轟かせた。

 以後、土岐氏は里見氏に属して数々の武功を挙げたが、為頼の代に至って里見氏と袂を分かった。その原因は、里見義堯の室となっていた為頼の娘が没したことから次第に亀裂が深まり、それに乗じた小田原後北条氏が懐柔の手を伸ばした。永禄七年(1564)第二次国府台合戦に際して、為頼は義弘に従って出陣はしたものの力が入らず、ついには後北条氏に走ったのである。

 為頼の死後、家督を継いだ頼春は近隣を侵略して武名を高め、領地は十万石に充つといわれる万喜土岐氏の最盛期を現出した。しかし、里見氏を離れて後北条氏に属してからの土岐氏はは、里見氏の配下にある近隣の諸将と絶えず対立し四面楚歌の状態となった。頼春はこの険しい状況にあって、よく家臣団を統率し、万喜城の要害を活かして、常に沈着、時に機略をもって里見氏の攻勢を撃退した。

 天正十年二月、里見義康は、配下の兵を率いて三浦をこえ、網代の城を攻撃した。頼春は兵を派遣してこれを防がせた。これをみた勝浦城の正木左近は、その虚をうかがい土岐氏方の小浜城を攻めとった。頼春の部将で小浜城主の鑓田美濃守は大いに怒って引き返し、これを攻めて小浜城を奪還した。

 天正十六年(1588)九月、大多喜城主正木頼忠と安房国丸城主山川豊前守を将とする里見氏家臣団が万喜城に押し寄せた。正木頼忠は自ら三千の兵を率いて大手から、山川は二千六百の兵で海路搦手から攻めた。頼忠は万喜城の西の八幡山に砦を築いて対陣し、万喜城を固く守った。

戦いは激戦であったが、頼春はよく防ぎ、各所に奮戦し里見勢には討死するものが続出し、正木頼忠はついに敗れて大多喜に退却、山川も居城に還った。翌年六月にも里見義康は万喜城を攻めさせた。しかし、この合戦も結局、里見軍の敗北であった。

 翌天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが諸国に伝達され、開戦も間近であったが、里見氏はなおも万喜城に固執していた。同年正月、正木時堯が土岐攻めに出陣した。戦いは苅谷原で展開されたが、この合戦も頼春が勝利し正木軍は大多喜へ逃れた。結局、里見氏は土岐氏に勝利することができず、土岐氏が滅亡したのは、天正十八年七月に小田原城が開城したのちの豊臣・徳川連合軍による房総掃討戦によってであった。 戦国時代の終焉

 ところで、天正年間は、戦国時代の総決算とでもいえる時期であった。天正元年(1573)武田信玄が死去し、同三年には武田騎馬軍団が三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って潰滅的敗北を喫した。同六年三月には、上杉謙信が病死し、天正十年になるろ、織田信長は甲斐に侵攻し、敗れた武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。

そして、六月には織田信長が明智光秀の謀叛で本能寺で死去した。ここに、時代は大きく転回することになる。信長死後の権力闘争を制した羽柴秀吉が信長の覇業を受け継いで天下統一の道を歩み出した。

 秀吉は関白に出世し豊臣と改め大坂し城を築いて、天正十三年(1585)、天下静謐令を発布、関東・奥羽惣無事令などを出した。すなわち、全国的に私戦禁止と境界裁定への服従を命じ、戦乱を収拾しようとしたのである。これに接した里見義頼は秀吉のもとへ使者を派遣し、太刀、黄金を進上、秀吉に恭順の意を示した。

これを受け、秀吉は里見領と北条領の境界裁定を実施、その結果里見分国は上総北東部は東金・土気領、中央部は庁南武田領、中南部は万喜土岐領を除いた地域、そして安房一国と確定されたのである

一方、後北条氏は東北で秀吉に激しく反発する伊達政宗と結んで、秀吉軍を迎え撃つため領国内の諸将に命じて軍勢を小田原に集結させた。

 このような後北条氏の姿勢に対して秀吉は全国の大小名に小田原参陣を命じ、天正十八年(1590)春、小田原城攻撃を開始した。この情勢の急変に際し、馬加千葉重胤をはじめ原氏・高城氏・上総の両酒井氏・庁南武田氏・万喜土岐氏等、房総諸大名のほとんどは後北条氏に従って小田原城に籠城、豊臣秀吉の攻撃に対抗したが敗れそれぞれ滅亡していった。

このとき、里見義頼の子義康は秀吉の要請に応じ出兵したが、小弓公方の再興のために独自の軍事行動をとり、またその過程で里見氏の龍の朱印を捺した禁制を発給していたことが発覚し、秀吉の怒りをかった。しかし、徳川家康の仲介で秀吉の怒りは解けたものの、里見氏は領国を安房一国に削られてしまった。その後、里見氏は豊臣大名の一員として朝鮮出兵にも参加し、義康軍は肥前国名護屋まで行ったが朝鮮渡海はしなかった。

 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は徳川秀忠に応じて宇都宮に参陣した。戦後、恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。義康が里見家を相続した時は十五歳の若さであったが、以後、十七年の間に里見家を取り巻く激変した。

独自の領国支配を展開する戦国大名の時代は去り、里見家も存続のため、新しい政治体制の中におしこまれざるをえなかった。それは、徳川氏を頂点とする幕府体制下の大名、すなわち近世大名という枠組みに把握されることであった。

 義康はこの大変動期に里見家の舵をにぎり、よく領国をまとめ、検地を実施し、家臣団を整備しながら、必死になって近世大名への道を歩んだといえよう。しかし、その途中に病を得た義康は、慶長八年十一月、病没した。享年三十一歳という若さであった。

里見氏の断絶

 義康が死亡すると子の梅鶴丸が十歳で里見氏の家督を継いだ。幼主を正木時茂・堀江頼忠などの一族重臣が補佐した。そして、慶長十一年、将軍徳川秀忠の前で元服した梅鶴丸は秀忠の一字を賜って忠義と名乗り、安房守に叙任された。さらに幕府の重臣大久保忠隣の長男忠常の娘を迎えて室とするなど、その前途は洋々たるものと思われた。

 ところが、忠義は思いもかけぬ事件にまきこまれる。岳父である大久保忠隣が幕府内の権力闘争に敗れて大久保一族が失脚した。すなわち、慶長十八年(1613)、大久保長安の事件で大久保忠隣が改易処分を受けたのである。忠義もこの事件に連座して改易処分となった。

しかし、表向きは国替えであり、安房国を没収され鹿島郡三万石の替地として伯耆倉吉三万石に転封となった。忠義は江戸からふたたび国許へ帰ることもなく、伯耆倉吉へ旅立った。ここに、安房における里見氏の歴史は幕を閉じたのである。伯耆に移った忠義には嗣子がなく、結局、忠義の死によって里見氏は断絶、改易となってしまった。

 おそらく、里見氏の改易は江戸に近い場所に、外様でしかも十万石以上の領国を支配する大名を徳川幕府が排除したとする見方もある。おそらく、そういう側面もあったことは疑いなく、里見氏は安房にいる限りいずれ改易か転封に遭う運命だったのであろう。

 子がなかったといわれる忠義には、実は三人の男子があった。しかし、みな側室の子で、忠義改易後に生まれたことになっている。そのうちの一人は成長して利輝と名乗り、家臣印東氏に託されて一生を終わった。

その孫義旭は間部越前守詮房に仕え、その子の代に間部氏の家老となり、間部家の鯖江転封に従い子孫は代々鯖江に住して明治維新に至ったという。いずれにしろ、安房の戦国大名であった里見氏は忠義の代で終焉を迎えたといえよう。

孫たちと久留里線乗車(1月4日) 上総松岡駅から上総亀山駅間・往復。(この区間は、昨年の台風26号による豪雨で線路の路盤が流され約1か月にわたって不通区間になったところ。現場は小櫃川上流の渓谷沿った区間で急斜面で重機がすぐに使えず復旧に時間がかかった。)

孫たちの願いをかなえるために、久留里線の上総松岡から久留里線の終点、上総亀山までの往復乗車を行った。  (中尾の家から上総松岡駅までは車で約30分)

この区間は、昨年野台風26号で大きな被害があり数か月に渡って不通になった区間だが、きれいに復旧していたが、列車は、徐行運転をしているように感じた。

JR東日本千葉支社は28日、台風26号の影響で16日から運転を見合わせているJR久留里線の久留里-上総亀山駅間について、まだ復旧には約3週間かかると発表した。

 

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 同社によると、台風26号の激しい風雨により、線路と枕木を支える盛土などが流出。上総松丘-上総亀山駅間では盛土が長さ約15メートル、深さ約12メートル、幅約20メートルにわたって崩壊した。復旧するためには盛土を入れる作業などが必要となるが、重機が入れない場所のため、現在は重機が移動できる道や土台を作る作業を行っている。  同線では久留里-上総亀山駅間の3駅間が運休しているが、木更津-久留里駅間は、列車の編成を短くするなどの対応をして運行されている。

この時の小櫃川下流の中尾では、小櫃川が氾濫警戒水位を超えたが、かろうじて氾濫を免れた。

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003_1024x768_2_2木更津市中尾の自宅前の水路・この水路は約2キロ下流で小櫃川に注いでいる。

 

家の前の水路は、氾濫しそう。

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025_1024x709久留里線は、ここ上総亀山駅で終点・線路もここで終わり。

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031_1024x683_2折り返し発の列車に乗って

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039_1024x683上総松岡駅で下車

2014年1月 2日 (木)

2014年1月2日 新年あけましておめでとうございます・毎年恒例の善光寺の護摩焚き法要・お札をいただき家へ・そのあと中尾の家の山神様・お稲荷様に孫たちとお参り・夕方家の周りにある田んぼを散歩。

木更津の田舎での1年の初めは、木更津市永井作にある真言宗豊山派・善光寺で1年の家内安全・無病息災・交通安全・諸願成就の護摩焚きから始まる。今年は、昨年とは違い穏やかで温かい正月を迎えることができた。参加者も約150名以上も集まり、お寺の本堂は檀家の人たちの願いで満ちていた。

長いお経の後・参加者は順番に火の周りを反時計回りに1回まわる。

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019_1024x683護摩焚きの後は、本堂の脇にある弟と両親のお墓詣り。

031_1024x683山の神様の前で孫たちの記念撮影

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