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2014年7月

2014年7月27日 (日)

幕張メッセに宇宙博を観に行く  長谷川さん・三條場さん・太郎君の4人で。

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宇宙の起源を探る ハヤブサ快挙 小惑星イトカワ サンプルリターン 

 

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084_1024x683ハヤブサ展示

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093_1024x683失敗したロケットエンジンを太平洋の深海から回収

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再使用ロケットRVT-9実験機成功 撮影編集 尾高俊夫・長谷川敏紀

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124_1024x683民間による宇宙旅行

民間の宇宙旅行・スペースシップワン テストフライト成功 撮影編集 尾高俊夫 長谷川敏紀 

スペースシップー2公開イベント 撮影 クラブツーリズム・編集 尾高俊夫

 

撮影編集 尾高俊夫

X prize Cup Dr Peter H Diamandis 撮影編集 尾高俊夫 長谷川敏紀

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134_1024x683宇宙エレベータ

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2014年7月26日 (土)

今年一番の暑い日 無農薬田んぼの外気温度は40度を超えた・稲たちは、この暑さに負けづ元気 2014年7月25日

YOUTUBEより動画配信

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002_1024x683_2中尾の家の前の無農薬田んぼ・今年一番の異常な猛暑の中、一段と元気な稲たち。

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014_1024x683中尾の家の入口

015_1024x683_2家の前の庭

016_1024x683_2庭から里山を望む。

2014年7月25日 (金)

江戸時代の西上総よもやま話し 講師 永井義雄氏 目からうろこの講演に拍手。

江戸時代(幕末)の私の先祖の伊豆島村の様子が、リアルに永井先生の講演で初めて見えてきた。村のコメの生産量は(村高)552,35268(約552石)で、62軒 給数(村に複数の領主)6 内訳は、幕府領・旗本朝倉・跡部・河野・佐野・小宮山で 552石の約35パーセントが、6件の領主に年貢として納められていたとのこと。 ≪一石は225キログラム・上田で1反あたり1石5斗(225キログラム)平均的農家では、約5反の田んぼを所有したいた(約1500坪)自作農が大部分であった。  領主との関係が希薄で、名主クラスでも領主の名前を知らない。藩領に比べて負担が少ない・年貢は決められた石高の35パーセント。実質上、農村は農民たちの自治で運営されている。 農民の年間の休みは、約100日。 収入は、村の組頭(富津では)で年30両で支出は20両。という具体的な話を、初めて聞き、目から鱗・・感動。 後半は、戊辰戦争で活躍した、請西藩主 林忠宗の生涯・この話ももっと時間を作っていただき、もっともっと話を聞きたいと思う。


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資料 ネットからの転載  江戸時代の農民自治成立の背景  

斎藤幸雄 HP ( 47 愛知 建築設計 ) 10/10/16 AM01 【印刷用へ】 >「村はかつて、実質的には自治組織であった。その性格を短い言葉で表現すると、布施=ボランティアの精神を根底にもちながら、独立精神と主義主張と結束力をもちあわせ、それが侵されようとするときには、一揆をもって応える、という、高く深く、やさしくしたたかな存在だった。」(210686) 江戸時代に、農村の自治が実現できたのは何故か?その背景を調べてみました。

戦国期に始まる兵農分離政策により、農村は完全に農民の自治に委ねられることになり、江戸時代を通じて“共同体”が維持され続けてきたようです。

以下、KNブログ「日本史についての雑文その4 兵農分離」から一部抜粋・編集(リンク)

■戦国期 旧来の封建領主の支配地域において自治を求める農民の動きが出てくる。封建領主からの自立と自治を求める農民の動きに地侍が乗っかって一揆を形成し、それが拡大し、また再編成されて戦国大名の家臣団が形成されていく。

信長は、兵農分離政策を実施し支配下の武士を農村から分離した。これにより武士を経済的に弱体化させることによって手懐けて、その軍事力のみを純粋に特化させて自己の軍事力の強大化を図った。

そして武士を切り離した農村は、完全に農民の自治に委ねられた。そのために検地を行い土地の所有者は封建領主ではなく、実際に田畑を耕す農民自身であるということなった。さらに農村からは武器を取り上げて変な輩が勝手に支配権を振るったり出来ないようにした。これらによって余計な中間搾取者や武器を持って暴れる者もいなくなり、農村は平和で豊かになった。

このように、土地を取り上げた武士を都市部に集め、武器を取り上げた農民による自治に農村は委ねるという政策が兵農分離だった。この兵農分離によって武士を経済的に弱体化して権力の支配下に置き、軍事力を権力の元に一元管理するという、新たな形の中央集権体制は江戸幕府の体制に引き継がれることになる。

■江戸時代 戦国期の自治農村の自治組織を構成していた武士達が兵農分離で江戸へ連れてこられて幕府組織を形成した。他方、武士を排除することで農村はもっと純粋な形での自治農村となることになった。

これは農村自治を前提とした変則的な中央集権体制で、むしろ武士を土地から隔離することに主眼が置かれていたともいえる。武士階級を権力の手元に隔離しておくために、権力、つまり幕府が武士の生活の面倒を見なければならなくなった。こうして、武士階級の弱体化には成功するが、その後、経済が成長するにつれて武士階級の存在が幕府財政を悪化させ、さらに経済成長の足を引っ張ることになってくる。

ヒヨウタンとヘチマの生育状態 2014年7月24日撮影・斉藤さんから群馬県月夜野のブルーベリーが送られてきた。

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カルガモの5羽のグループが毎日来る小杉田んぼ 2014年7月23日撮影・もち米の穂もかなり出てきている・茎も太く・葉も濃い緑・立派に育っている。

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015_1024x683_2もち米の田んぼの向こうの小山は、中尾城址。

009_1024x683こちらは、コシヒカリの田んぼ

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2014年7月22日 (火)

中尾城址(木更津市中尾) 中尾の家の西側の小高い丘には、戦国時代に中尾城があった。

Photo_2各写真をクリックすると大きくなります。

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ネットから中尾城址を調べてみると・ネットへリンク

http://www1.linkclub.or.jp/~part3/chiba/nakao/nakao.html

2014年7月20日 (日)

7月20日 無農薬無肥料で育てるもち米 7月16日に初めて穂が出始めて、今日で4日目・ 全部の株から穂が出始めた。

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025_1024x683モンキアゲハが吸水

<こちらは、コシヒカリ・小杉田んぼのコシヒカリは、4日ほど尾高田んぼより穂の出方が遅くなっている。

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2014年7月18日 (金)

7月18日4時30分 3日間続いた猛暑もひと段落して霧雨が降ってきた・ヒヨウタンもヘチマも順調に育ち花が咲き始めている。田んぼの稲は順調に穂が出てきている。

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034_1024x683_2ヒョウタンの花

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033_1024x683_2ヘチマの花

012_1024x683_2田んぼでは、オモダカの花が。

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小杉田んぼのもち米は、穂がかなり出てきた。

002_1024x683もち米

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009_1024x683_2コシヒカリ

008_1024x683_2コシヒカリも少し遅れたが穂が出てきた。

◎尾高田んぼの様子。

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2014年7月16日 (水)

無農薬無肥料の米作り  田植え後66日目 出穂(しゅすい)  2014年7月16日 木更津中尾伊豆島プロジェクト

昨日に続いてうだるような暑さ・雲一つない晴天・気温は朝10時には30度を超える中・稲の穂が出始めた。 002_1024x683小杉田んぼ・もち米の穂

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026_1024x683_2尾高田んぼ

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027_1024x683この日の夕方までには、両田んぼでは約20株ぐらいづつ、穂が出てきていた。

 

昨年の出穂の時期は、7月22日

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昨年(2013年)は、小杉さんが一番目に出てきた穂を見つけた。

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昨年の稲刈りは、コンバインで9月15日に、行ったので今年は、9月7日ぐらいかも。  昨年は、稲刈り直前の台風直撃のほんの少しの晴れ間を縫って、コンバインで一機に行った。

 

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この日の撮影は、すべて三條場洋子さん。

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朝10時からはじめた稲刈りはちょうど12時に終了した・収穫は1反歩あたり約500キロ・大豊作だ。

 

2014年7月15日 (火)

無農薬無肥料のコメ作り 田植え後65日目85センチから90センチに成長

2014年7月14日 (月)

孫たちの収穫 5月に植えたナス・トマト・キュウリ・ジャガイモを収穫・無農薬の玄米を白米に精米して・この日の夕食は野菜サラダとカレーライス・ゆうた君は3回もお代わり.

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2014年7月13日夕方撮影

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孫たちは、いつもは野菜嫌いだが、自分たちで収穫したミニトマトときゅりは、洗ったそのままで食べる。

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この日の夕食は野菜サラダとカレーライス・ゆうた君は3回もお代わり。

2014年7月13日 (日)

孫たちの夏・2人でトンボを採って。木更津市中尾 2014年7月13日

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2014年7月12日 (土)

小杉邸・プール開き 7月12日・2014年 

 

小杉お父さんは、まだ排水管工事中。今日の猛暑で、熱中症になりそう。

 

7月12日 小杉田んぼは。畔の草刈り・稲は順調に育っている。

エンジンの音は、小杉さんが刈払機で畔の草を刈っている音。

2014年7月11日 (金)

請西藩主・林忠崇 旧請西藩1万石の真武根(まふね)陣屋遺址 ふるさと歴史講座・(木更津市) 

Youtubeから動画配信  脱藩大名 林忠宗の戦い

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慶応4年{1868年}4代藩主の林晶之助忠宗は戊辰戦争において佐幕派に属し、木更津に集結した遊撃隊の伊庭八郎らとともに、箱根や奥羽地方で転戦した後、仙台にて降伏。  この出陣の際、自ら火を放ち真武根(まふね)陣屋は焼失。   その後、領地も新政府に没収された。 昭和16年歿・徳川幕府最後の大名として人々の記憶に残っている。

脱藩大名・林忠宗 ネット記事にリンク http://katintokei.at.webry.info/201102/article_9.html

ウイキぺディアで検索 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BF%A0%E5%B4%87

前代未聞・藩主が脱藩・最後の大名・林忠宗へリンク http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/01/post-feb1.html

上総の歴史 http://kazusa.jpn.org/b/archives/category/%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E3%83%BB%E5%AE%89%E6%88%BF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/jozai/hayashi/page/2

林忠宗と箱根戦争について http://kazusa.jpn.org/b/archives/3174

林忠宗年表 http://kazusa.jpn.org/b/jozai


 

018_1024x717各写真をクリックすると拡大します。

 

 

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▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ) 忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。 一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

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▲真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ) 発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。 一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

022_1024x683_2陣屋遺址から木更津市中央霊園入口を望む。

 

 

025_1024x683_2霊園入口から陣屋遺址を望む。

 

 

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ネットからの転載

前代未聞・藩主が脱藩・最後の大名・林忠宗へリンク http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/01/post-feb1.html

前代未聞!藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇

昭和十六年(1941年)1月22日、最後の大名とも呼ばれた請西藩の第3代藩主・林忠崇が94歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 林忠崇(はやしただたか)は、嘉永元年(1848年)、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)藩主・林忠旭(ただあきら)の五男として生まれ、20歳の時に家督を継ぎ、第3代藩主となりました。

請西藩は、わずか1万石の小禄ではありましたが、祖先が真心を尽くして徳川(松平)将軍家に仕えた功績から、毎年、正月元旦には、最初に将軍からの盃を賜る名誉を持つ家柄で、そのぶん忠崇が将軍家を思う気持ちもひとしおでした。

文武両道に優れ、将来は幕府を背負って立つ器と噂された忠崇の、運命が変わるターニングポイントは、藩主になってわずか1年後に訪れます。

慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に始まった戊辰戦争・・・その後、東に向かった官軍と、それを迎える幕府軍も、西郷隆盛と勝海舟の劇的な会見(3月14日参照>>)によって直接対決が回避され、4月11日には江戸城無血開城(4月11日参照>>)となりました。 ただ、この無血開城によって、江戸の町を火の海にする事は避けられましたが、負けを認めた以上、当然の事ながら、この時点での徳川家の存続は風前の灯火・・・官軍の主流が、北陸・東北へと進む中、幕府の一員として納得のいかない一部の者が抵抗を続けます。 江戸幕府・最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の護衛として上野・寛永寺にいた彰義隊(しょうぎたい)は、慶喜が水戸にて謹慎中の身となっても、なおも寛永寺に籠り、5月15日には、包囲した官軍との間で上野戦争となります(5月15日参照>>)。

さらに、上野戦争で敗れた彰義隊の一部が振武軍(しんぶぐん)と名を変え、5月23日には飯能戦争へ突入(5月23日参照>>)となるのですが・・・

そんな幕府の武士による抵抗と前後して、やはり慶喜のもとで遊撃隊(ゆうげきたい)として鳥羽伏見の戦いを駆け抜けた人見勝太郎(ひとみかつたろう)と伊庭八郎(いばはちろう)が、若き藩主・忠崇を訪ねてきたのは4月28日の事でした。

もちろん、日頃の忠崇の幕府=将軍への篤い思いを知っての訪問・・・「徳川家の存続を目指して、ともに戦いましょう」という事です。

忠崇は考えます。

わずか1万石の請西藩・・・とても官軍を相手に戦える軍事力はありません。

しかも、忠誠を誓う将軍・慶喜は水戸で謹慎して恭順姿勢・・・藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になる・・・

そして、忠崇は決断します。

閏4月3日を以って、なんと、59人の藩士を連れて、自らが脱藩・・・浪人の身となって遊撃隊とともに参戦するのです。

藩主の脱藩!

もともと佐幕派(尊王に対する幕府側)だった請西の領民たちですから、藩主が立てば、自分たちだって、ともに玉砕する気持ちは持っていましたが、その領民のために、自ら脱藩して戦おうとする藩主に大いに感銘・・・この前代未聞の出来事に、彼らの出陣を見送る村人は、皆、道ばたに土下座して、その武運を祈ったと言います。 こうして、戊辰戦争に挑んだ忠崇でしたが、中心人物である人見が留守の間に勃発した箱根戦争(5月27日参照>>)では、小田原藩の寝返りに遭い、奮戦空しく、撤退する事に・・・熱海で、かの人見と合流した忠崇は、箱根で重傷を負った伊庭を品川沖に停泊中だった榎本艦隊に預け、長岡城奪回作戦を展開中の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(7月24日参照>>)を応援するため、東北へと向かいます。

ウデに覚えのある忠崇は、一連の戦いでも最前線に立って戦う姿勢を見せますが、さすがに家臣たちに「殿様は後方で・・・」と、たしなめられたりもしています。 しかし、ご存知のように、東北での戦いは、連戦連敗となってしまいます。 やがて9月に入って、頼っていた米沢藩・仙台藩が相次いで降伏すると、もはや手を組んで戦う相手もなくなりました。

そんな時、忠崇は、徳川家の存続と慶喜の命が保障された(5月24日参照>>)事を知ったのです。 実際には、5ヶ月前の閏4月29日に決定していた事ですが、各地を点々としていた彼の耳には入っていなかったようで

す。 このニュースを聞いた忠崇は、 「もともとの願いが叶った以上、この先の抵抗は私利私欲の無意味な戦い・・・戦いのための戦いになる」 と、あっさりと降伏します。

この決断一つをみても、彼が優秀な人物である事がわかります。 なんせ、脱藩して賊軍としておかみに抵抗したのです。 おそらく、死を覚悟しての投降・・・ 自らの死を目の前にして、うろたえて悪あがきする事なく、冷静に先を読むわずか21歳の青年は、家臣と引き離され、新政府によって監禁される事になります。 しかし、幸いな事に切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(1872年)に釈放され、晴れて自由の身となりました。

・・・とは、言え、忠崇の人生は、ここからが苦労の連続でした。 そう、彼が脱藩したおかげで、林家の家名は存続しましたが、当然の事ながら、当主は甥の忠弘が継いでいますから、彼は、何もないゼロからのスタート。 維新直後は、たとえ、幕府側で戦った過去があっても、一国の大名=藩主なら、華族という特権が与えられていたわけですが、彼には、それが適用されません。 裸一貫となった忠崇は、なんと、地元で開拓農民として、元自分が治めた、その地を自らの手で耕すのです。 その心を思うと、とてもお気の毒な思いがしますが、やはり、それは、元領民たちも同じ・・・あまりにも気の毒に思った誰かの口利きで東京府の下級官員となりますが、それはそれで、忠崇には、何か引っかかる物があったのでしょうか、わずか2年でその仕事をやめ、今度は、函館にて物産商の番頭として働きます。 その後も、大阪で役所の書記をやったり・・・と職を転々としながらの20年・・・普通の没落武士より、はるかに苦悩の日々を送った事でしょう。 そんな彼の汚名が晴らされるのは明治二十六年(1893年)・・・林家の嘆願がようやく聞き入れられ、林家への復帰が許されるとともに、華族の一員となったのです。 晩年は次女・ミツさんと暮らし、ようやく平凡な生活ができるようになった上、94歳の長寿を真っ当したおかげで、大名経験者で最後の人となり、ときおりは、戊辰戦争の生き証人として、マスコミからインタビューを受けるなど、おおむね幸せな生活を送られていたようです。 こうして、昭和十六年(1941年)1月22日、94歳の大往生を迎えた忠崇ですが、彼の時世の句というのは、実は21歳のあの時に詠んだもの・・・ そう、官軍に降伏して、一旦、死を覚悟したあの時です。

♪真心の あるかなきかは ほふりだす   腹の血潮の 色にこそ知れ  ♪ なんとも、武士らしい、覚悟あふれる句です。 そして、もう一つ・・・彼が晩年に詠んだ句があります。 ♪琴となり 下駄となるのも 桐の運 ♪ 世襲の是非、親の七光りが目に付く今日この頃・・・確かに、2代目・3代目にも優秀な人はいるでしょう。 しかし、一般とは、スタートの時点で違うその得々人生・・・主君のために、その世襲を捨て、底辺の下駄となった彼の人生は、単なる3代目では味わえない有意義なものだったに違いありません。

あの若き日の決断が間違いではなかった事を、晩年の句が証明しているような気がします。  .

7月11日台風8号一過の青空・田んぼの周りの農道と畔の草刈り。

台風8号が千葉県の富津市に上陸したとのテレビのニュースを聞き、心配で外を見ると、無風で細かい雨が降っているだけ、台風はどこへ行ってしまったのか?その頃台風8号は、我が家の上を,こっそり通過して九十九里の海に逃げていったのだ。朝8時を過ぎると抜けるような青空・今日の台風情報と、天気予報はどうなっているのだろうか?  食事を済ませてから、昼過ぎまでは、田んぼの周りの農道と畔の草刈りを行った。真夏の太陽だが、田んぼの上を吹く風は涼しくて気持ちがいい。

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2014年7月10日 (木)

7月10日早朝・台風8号鹿児島上陸・その影響か南からの雲の流れが早い・台風に備えて田んぼの見回り。

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011_1024x683小杉田んぼの様子。

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014_1024x683_2尾高田んぼの様子・昨日ようやく除草のめどがついた。

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日本最大級の蝶・モンキアゲハ(吸水) 2014年7月10日朝、台風8号の影響の南風が吹く中・木更津市中尾の家の庭にて。

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2014年7月 5日 (土)

2013年度のブログを観る 昨年の出穂(7月22日)と稲刈り(9月15日)

小杉 武さん撮影 20130722_184959出穂・今年は小杉さんが一番乗り・おめでとう。

昨年の写真(2012年7月21日夕方・出穂発見・小杉 武さん。

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昨年(2013年)稲刈りの日は9月15日・コンバインで刈り取る。昨年のブログを見る

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この日の撮影は、すべて三條場洋子さん。

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朝10時からはじめた稲刈りはちょうど12時に終了した・収穫は1反歩あたり約500キロ・大豊作だ。

 

無農薬無肥料の田んぼにミネラルをまく(月末に出穂を控えて) 科学映像館

YouTubeより動画配信

 

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2014年7月 4日 (金)

梅雨の木更津中尾伊豆島プロジェクト・中尾の里山の風景 2014年7月3日・4日・

042_1024x6833日の夜半から4日の朝まで雨・朝・雨は上がったが東からの雲が早い・時折陽射しが。

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051_1024x683庭の中央にある柿木・下記の身が直径3センチになった。

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055_51024x683中尾の里山の入口の門

05661024x683門の前から里山田んぼ約600坪・(無農薬無肥料でお米を栽培)

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003_1024x683_2この1ケ月は、稲の株間のコナギがぐんぐん・毎日毎日は、コナギとのいたちごっこ。

006_1024x683毎日来る野生の合鴨

007_1024x683稲の高さは約75センチ

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2014年7月 3日 (木)

7月1日から小杉田んぼは、中干し開始・7月3日齋藤修三さんと三條場洋子さんの3人で今年の小杉田んぼの素晴らしさを見学。

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036_1024x683小杉田んぼより中尾の家を望む。

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047_1024x683_2今年は、初めてもち米を植えた・暮れに餅つきを行うのが楽しみだ。

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齋藤修三さん・ヒヨウタン・へちま棚を器用に作り植える。7月2日・3日・2014年

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3人の久しぶりの再会・夕食は、地元の食材で。7月2日

田んぼでの草取りを終え、泥をおとしてから・ビールで乾杯。 001_1024x683

002_1024x683今日の夕食は、三條場洋子さんの担当・最初は、ハマグリ・あさりの鉄板焼き+白ワイン。

003_1024x683_2焼肉+赤ワイン

004_1024x683_2大阪の本場のお好み焼き

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田の草取り・稲の株間は最後は、両手で草を取り除いてあげる。株に取りついたコナギをとってあげると稲は、突然成長するように見える。

1_27月2日猛暑・草取りは日中をを避け夕方4時から・撮影は齋藤修三さん

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7_2中尾の家の前の無農薬・無肥料田んぼ。

 

2014年7月 2日 (水)

7月2日 齋藤修三さんと三條場洋子さん久しぶりの再会 ジャガイも掘りとヒョウタン棚製作。

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010_1024x683_2ヒヨウタン棚製作

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三條場洋子の映像履歴 医学分野

 

 

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