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2015年1月

2015年1月31日 (土)

約1900年前の弥生時代後期の水田跡が木更津市下望陀(しももうだ)で発見された・{芝野遺跡 千葉県文化財センター/房総の文化財 創刊号(平成4年9月1日発行)より記事転載)

Photo_2約1900年前の弥生時代後期の水田跡が木更津市下望陀(しももうだ)で発見された・芝野遺跡(画面下が小櫃川・小櫃川北岸と高速道路が交わるところが発掘現場。

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千葉県内最古の水田・加藤修司氏解説

木更津市下望陀(しももうだ)で約1900年前の弥生時代後期の水田跡が発見された。 当地の字名から芝野遺跡と名づけられました。

 

水田は、小櫃川のすぐ北側につくられたおり、現在の水田のように整然と区画はされておりません。

大小さまざまな区画の水田が地形に合わせて扇形に広がっています。

畦道や水路、水ぜめをつくるなど、当時の人の工夫が見られます。

水田のそばには、壺や瓶といった、当時の生活用具が1列に並んで出土しています。  人々が水田に向かって、豊作を祈ったものでしょうか。

木更津市は、東京湾に面して、東海地方との交流が盛んであったことから、西方の稲作文化をいち早く取り入れたと思われます。

 

周辺にも水田は広がっており、すでに弥生時代のこの地域では、広い範囲で水田耕作を行っていたことがうかがえます。(加藤修司)

菅生遺跡(弥生時代から古墳時代にかけての水田跡)は、芝野遺跡の下流約3キロのところにある。

055_1024x683上総菅生遺跡は、この小櫃川の右側のカーブしている地点・小櫃川の河川改修でその大部分は川の中に。

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芝野遺跡から小櫃川を約3キロ下ったところに弥生時代の水田跡・菅生遺跡がある。 ふるさと歴史講座 2015年1月22日 東清公民館にて 講師 木更津市教育委員会 酒巻忠史主幹

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120_1024x683病院跡から朝日町のジャスコを望む

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Photo_6上総大寺廃寺は、中尾の自宅から北に約1,6キロの地点にあります。

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011_1024x683_3上総大寺廃寺石製路盤

016_1024x683_2大寺廃寺は、出土した軒丸瓦の文様(複弁八菜蓮華文}によって、奈良飛鳥の四大寺の一つ川原寺との関連が非常に高いとみられ、この川原寺の創建年代に近い、7世紀後半につくられた上総国最古の寺院と思われます。木更津市教育委員会より転載。

026_1024x701写真の左から2番目が大場磐雄先生

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Photo_2弥生時代の水田跡と飛鳥時代の行政府跡?

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奈良の川原寺のHPへリンク http://www9.plala.or.jp/kinomuku/kawaradera.htm

これ以下はネットからの転載

 

これまでに大場氏による菅生遺跡における調査の写真資料は昭和53(1978)年に出版された『上総菅生遺跡』の他、様々な論文の中で引用されており、その概要が窺える。写真資料に関しても、これらの論文中に度々用いられており、ここではその内容の一部に触れてみたい。

 

調査当時の周辺環境がわかる遺跡の遠景写真・遺構写真は、戦後急速に変化した当地における開発が開始される以前の状況を知る上でも非常に示唆的である。例えば大場氏は『上総菅生遺跡』の報告書中の第1図、第4図、第12図などで、また、参考文献の幾つかの論文における遺跡遠望でも菅生遺跡を中心とした周辺環境を一瞥できる写真を利用している。また河川改修によって流路を何度か変更している小櫃川の昭和初期当時の状況も窺える資料としての意義も看過できない。この他、発掘調査参加者による集合写真、遺物写真なども多数残されている。

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この中には人物を特定できる資料も多い。遺物写真は報告書中に未掲載の遺物出土状況の写真も多数含まれており、土器はもとより大きな成果をあげた木器や木製品などの出土状態なども窺える。

 

本調査と併せて大場氏は周辺の他の遺跡に関しても調査を行なっており、今回の資料中にいくつか認めることができた。確認できた中で2、3例を挙げると相里古墳は昭和13年5月の菅生遺跡第1次、第3回調査の際に大場氏が調査を行なって。『楽石雑筆』の記事からは遺物の出土も認められているが、当資料の中には石室の状態を写した遺構写真が残されている。

 

また大場氏は当調査中、双魚佩や環頭太刀の出土で著名な松面古墳の調査を実施している。松面古墳は調査当時、産業組合病院裏古墳とされ、のち大場氏による『日本古文化序説』の中では元新地古墳、『上総菅生遺跡』中では君津病院内古墳(周辺遺跡の図中では松面古墳)と称されている。調査は菅生遺跡第1次、第4回調査の昭和13年7月に実施されているが、他に当古墳の概要を記した報告等がなされていないため、今回の資料中に存在している石室や墳丘の写真資料は、かなり破壊を受けた段階ではあるが公開する意義が大きい。この他にも菅生遺跡のすぐ北側に位置する古代寺院の大寺廃寺など木更津付近一帯の調査を行っている資料も存在する。

 

次に菅生遺跡の現況について述べてみたい。現在、菅生遺跡では大場氏が調査した地点はその大部分が小櫃川の流路中にあり、原形を留めていない。

また詳細な調査地点に関しても、第1次調査時から65年の時を経て、現地の地理的状況は河川の流れを含めて全く変わってしまい、正確な位置に関する知見を得ることは出来なかった

 

菅生遺跡周辺では、大寺浄水場建設に伴う菅生第2遺跡の調査の後、菅生遺跡も千葉県、木更津市による調査がされており、資料の蓄積が進んでいる。

一方で、大寺浄水場や菅生の西側を南北に伸びて小櫃川をまたぐ東京湾アクアライン連絡道などの開発によって菅生遺跡の取り巻く環境は大きく様変わりしている。また、大きな手掛かりとなる小櫃川の流路が変ってしまい、旧流路が消滅してしまった現在では、遺跡の原状を考察する事は非常に困難である。

かし、遺跡の遠景写真で見られるような高千穂古墳群が存在する丘陵などはそのまま確認することができる。そして遺跡現場自体は、大寺浄水場の南側の小櫃川が北側に大きく屈曲する部分のやや東側の河床であることは、報告書等の図上から推測可能であり、今回はこの地点の現在の実地調査を行なうこととした

 

調査は平成15年1月18日に実施し、撮影はそれぞれ遺跡の北側、西側、南側から行なった。写真1、写真3に見える高架の道路が東京湾アクアライン連絡道であり、写真2はその上から撮影した。写真2では小櫃川が大きく屈曲している箇所が確認でき、菅生遺跡の場所が比較的分かり易い。また写真2右手側は高千穂古墳群のある丘陵、左手側は大寺浄水場である。正確な遺跡の位置に関しては問題もあるが、菅生遺跡周辺の21世紀初頭の様子を「定点撮影」するという意義をこめている。また、近年活発に議論され、本フロンティア事業内においても懸案の一つとなっている画像資料の活用という面からも、遺跡調査時と現状の比較ということで現況の報告を行なった。

 

菅生遺跡において大場氏が発掘を行った正確な位置に関しては、遺跡の失われてしまった現在トレンチの位置など正確には不明な点が多いが、残された写真資料は調査地を特定する手掛かりとなる情報が多く含まれている。こうした細かい調査区がどの部分にあたるかなど、残された課題は大きい。また考古学ばかりではなく昭和13(1938)年当時の菅生における「定点撮影」として他分野の利用も想定できる。当新出資料に限らず広汎にわたる研究利用に供するよう、これからも作業を継続していきたい。

 

なお、菅生遺跡の現地調査や文献収集にあたっては君津郡市文化財センターの光江章氏、木更津市金鈴塚遺物保存館の稲葉昭智氏に多大なるご助力を頂いた。記して謝意を表したい。 (髙野晶文)

〔参考文献〕 『 大場磐雄 1938.3 「上総菅生遺跡(予報第一回)」『考古学』9-3,p109~116,東京考古学会 大場磐雄 1938.5 「地底の宝庫 清川遺跡を発掘して」『科学画報』27-5,p50~51・105~111,誠文堂新光社 大場磐雄 1938.10 「上総菅生遺跡(予報第二回)」『考古学』9-10,p469~480,東京考古学会 大場磐雄 1938.11 「上総清川村菅生遺跡発掘日録」『上代文化』16,p1~9,上代文化研究会 大場磐雄 1939.1 「上総菅生遺跡の一考察(一)」『考古学雑誌』29-1,p1~8,考古学会 大場磐雄 1939.3 「上総菅生遺跡の一考察(二)」『考古学雑誌』29-3,p154~169,考古学会 大場磐雄 1943.2 『日本古文化序説』明世堂 大場磐雄 1948.10 「千葉県木更津市菅生遺跡の研究」『上代文化』18,p1~10,國學院大学考古学会 大場磐雄 1951.4 「菅生遺跡回顧」『房総展望』5-4,p2~4,房総展望社 菅生遺跡調査団・木更津市教育委員会 1973.6 『上総菅生遺跡 -昭和47年度第1期調査速報-』 大場磐雄 1977.1 『大場磐雄著作集第八巻 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 木更津市菅生遺跡調査団編 1980.3 『上総菅生遺跡』中央公論美術出版

2015年1月29日 (木)

中尾の家の里山整備 手前の約600坪ほどを草刈り機で4時間ほどかかって草刈りを行った。2015年1月29日

001_1024x683草刈り前の状態

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003_1024x6834時間後・草刈終了

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2015年1月27日 (火)

2015年1月27日 朝の10時過ぎまでは雨降り・そのあと日が射し暖かい春の陽気に・紅梅が咲き始めた・春は確実に近づいてきた。

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033_1024x683家のすべての窓を開け、春の暖かい空気を室内に呼び込む。

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047_1024x683母屋を包み込む樹齢約350年の椎の大木。

063_1024x6832階の窓を開けると、手の届くところに椿の大木が。

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2015年1月25日 (日)

2015年1月25日(日)ユンボを使って竹林の整備 淵田さん小杉さん三條場さんと尾高・午後は、上のヒノキ山の畑の整備。

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午後からは、上のヒノキ山の畑を、耕運機を使って耕す。(黒色の土は、ふかふかで耕すのは、気持ちがいい・この畑も、無農薬・無化学肥料で野菜を育てている。

 

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037_1024x683夕方4時過ぎに、耕し終えた。

 

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041_1024x683この畑の一番日当たりがよく、水はけの良いところに、昨年の3月に、 鎌足桜保存会からいただいた苗木5本のうちの1本を植えた・生育は順調・4月中旬に咲くのが待ちどうしい。

 

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2015年1月23日 (金)

きみさらず大橋のたもとには,ヤマトタケルノミコト(倭建命}とオトタチバナヒメ(弟橘姫)の銅像が菅生の里と小櫃川を見下ろしている・菅生遺跡周辺の散歩 中尾の家から北に500メートルほどの菅生遺跡周辺を歩いてみた。2015年1月23日

020_1024x683きみさらず大橋のたもとには,ヤマトタケルノミコト(倭建命}とオトタチバナヒメ(弟橘姫)の銅像が菅生の里と小櫃川上流を見下ろしている。

023_1024x683この、きみさらず大橋の下流側からは、小櫃川の上に富士山がくっきりと見え、富士山の撮影のポイントにもなっている。

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009_1024x683_2小櫃川の上流方向を望む

 

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026_1024x683_2平景清陣屋跡・平安時代末期の武将・この近くに景清の井戸がある。

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063_1024x683水道の取水口の上流には、馬頭観音が。

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065_1024x683馬頭観音

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解明が待たれる・菅生(すごう)遺跡調査の今後の課題・菅生遺跡調査の重要性について 木更津市教育委員会 文化課 酒巻忠史主幹、今後の展望を語る。2015年1月22日ふるさと歴史講座にて。

055_1024x683解明が待たれる現在の菅生遺跡は、この小櫃川の右側のカーブしている地点・小櫃川の河川改修でその大部分は川の中に。

 

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●菅生遺跡の発見

○菅生遺跡 木更津市菅生、大寺付近に広がる弥生時代、古墳時代、奈良時代の遺跡。

○発見者 大寺在住の宮本寿吉氏

○発見のきっかけ 小櫃川の河川工事で出土した遺物を発見したことによる。

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菅生遺跡調査の重要性 ○1938年(昭和13年)当時、全国的にも数少ない、低地の遺跡の調査が行われたこと。

○金鈴塚古墳と、並ぶ、全国的にも有名な遺跡であること。

○菅生遺跡調査団のメンバーにより、相里}遺跡,松面古墳などの調査も行われ、多くの成果を上げていること。

○当時・新聞報道や講演会の開催により、遺跡の重要性が広まり、学会や地元から物心両面の援助が得られたこと。

菅生遺跡調査の今後の課題

○古墳時代後期の遺物の出土が多く、長須賀古墳群(金鈴塚古墳・松面古墳など}との関連性が想定されること。

遺跡の範囲、大溝の南側への延長は、どれほどのものか、水田跡の広がりなど、解明すべき課題は多い。 以上のまとめを、ふるさと歴史講座 第9回学習会で 木更津市教育委員会 文化課 主幹 酒巻忠史氏が講演した。

素晴らしい講演であった。  この先、菅生遺跡の解明が進み、古墳時代の菅生のリアルな姿が解明されることを願っている。

菅生遺跡とは・ネットより検索・転載 菅生遺跡 すごういせき

千葉県木更津(きさらづ)市大字菅生より、現在の小櫃川(おびつがわ)河床を経て、大字大寺(おおてら)に至る古代水路を中心とした集落遺跡。1937年(昭和12)より73年の間、第一次より第三次まで延べ9回にわたる発掘調査が行われた。

現地は下層に弥生(やよい)中~後期、中層に古墳時代後期、上層に奈良・平安時代の遺構・遺物を出土している。弥生中期の第二号住居跡では多くの完形土器とともに、関東には珍しい太形蛤刃状(ふとがたはまぐりばじよう)石器二のほか、柱状抉入(ちゆうじようえぐりいり)石器五、鉄斧(てつぷ)二を出土した。

遺跡の中心をなす中層では、土師器(はじき)や須恵器(すえき)とともに大量の木製容器や坐臥(ざが)具、装身具、紡績具、機織(はたおり)具、祭器具、農具、建築材などを出土し、古墳時代の民衆生活を知る有力な手掛りとなった。[乙益重隆]

乙益 重隆 オトマス シゲタカ 昭和・平成期の考古学者 国学院大学名誉教授。 生年大正8(1919)年1月7日 没年平成3(1991)年3月2日 出生地熊本県球磨郡免田村(現・免田町) 学歴〔年〕国学院大学文学部国史学科〔昭和16年〕卒

主な受賞名〔年〕熊日社会賞〔昭和38年〕 経歴昭和22年球磨農学校教諭、24年熊本女子大学助手、38年教授を経て、45年国学院大学教授に就任、のち考古学資料館長兼任、平成元年定年退職し名誉教授。日本考古学協会委員長、文化財保護審議会専門委員なども務めた。著書に「朝鮮の在来農具」「肥後上代文化史」「装飾古墳と文様」(共著)など。

2015年1月22日 (木)

菅生遺跡 ふるさと歴史講座 2015年1月22日 東清公民館にて 講師 木更津市教育委員会 酒巻忠史主幹

055_1024x683上総菅生遺跡は、この小櫃川の右側のカーブしている地点・小櫃川の河川改修でその大部分は川の中に。

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菅生遺跡 ふるさと歴史講座 2015年1月22日 東清公民館にて 講師 木更津市教育委員会 酒巻忠史主幹

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011_1024x683_3上総大寺廃寺石製路盤

016_1024x683_2大寺廃寺は、出土した軒丸瓦の文様(複弁八菜蓮華文}によって、奈良飛鳥の四大寺の一つ川原寺との関連が非常に高いとみられ、この川原寺の創建年代に近い、7世紀後半につくられた上総国最古の寺院と思われます。木更津市教育委員会より転載。

026_1024x701写真の左から2番目が大場磐雄先生

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Photo_2弥生時代の水田跡と飛鳥時代の行政府跡?

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奈良の川原寺のHPへリンク http://www9.plala.or.jp/kinomuku/kawaradera.htm

これ以下はネットからの転載

 

これまでに大場氏による菅生遺跡における調査の写真資料は昭和53(1978)年に出版された『上総菅生遺跡』の他、様々な論文の中で引用されており、その概要が窺える。写真資料に関しても、これらの論文中に度々用いられており、ここではその内容の一部に触れてみたい。

 

調査当時の周辺環境がわかる遺跡の遠景写真・遺構写真は、戦後急速に変化した当地における開発が開始される以前の状況を知る上でも非常に示唆的である。例えば大場氏は『上総菅生遺跡』の報告書中の第1図、第4図、第12図などで、また、参考文献の幾つかの論文における遺跡遠望でも菅生遺跡を中心とした周辺環境を一瞥できる写真を利用している。また河川改修によって流路を何度か変更している小櫃川の昭和初期当時の状況も窺える資料としての意義も看過できない。この他、発掘調査参加者による集合写真、遺物写真なども多数残されている。

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この中には人物を特定できる資料も多い。遺物写真は報告書中に未掲載の遺物出土状況の写真も多数含まれており、土器はもとより大きな成果をあげた木器や木製品などの出土状態なども窺える。

 

本調査と併せて大場氏は周辺の他の遺跡に関しても調査を行なっており、今回の資料中にいくつか認めることができた。確認できた中で2、3例を挙げると相里古墳は昭和13年5月の菅生遺跡第1次、第3回調査の際に大場氏が調査を行なって。『楽石雑筆』の記事からは遺物の出土も認められているが、当資料の中には石室の状態を写した遺構写真が残されている。

 

また大場氏は当調査中、双魚佩や環頭太刀の出土で著名な松面古墳の調査を実施している。松面古墳は調査当時、産業組合病院裏古墳とされ、のち大場氏による『日本古文化序説』の中では元新地古墳、『上総菅生遺跡』中では君津病院内古墳(周辺遺跡の図中では松面古墳)と称されている。調査は菅生遺跡第1次、第4回調査の昭和13年7月に実施されているが、他に当古墳の概要を記した報告等がなされていないため、今回の資料中に存在している石室や墳丘の写真資料は、かなり破壊を受けた段階ではあるが公開する意義が大きい。この他にも菅生遺跡のすぐ北側に位置する古代寺院の大寺廃寺など木更津付近一帯の調査を行っている資料も存在する。

 

次に菅生遺跡の現況について述べてみたい。現在、菅生遺跡では大場氏が調査した地点はその大部分が小櫃川の流路中にあり、原形を留めていない。

また詳細な調査地点に関しても、第1次調査時から65年の時を経て、現地の地理的状況は河川の流れを含めて全く変わってしまい、正確な位置に関する知見を得ることは出来なかった

 

菅生遺跡周辺では、大寺浄水場建設に伴う菅生第2遺跡の調査の後、菅生遺跡も千葉県、木更津市による調査がされており、資料の蓄積が進んでいる。

一方で、大寺浄水場や菅生の西側を南北に伸びて小櫃川をまたぐ東京湾アクアライン連絡道などの開発によって菅生遺跡の取り巻く環境は大きく様変わりしている。また、大きな手掛かりとなる小櫃川の流路が変ってしまい、旧流路が消滅してしまった現在では、遺跡の原状を考察する事は非常に困難である。

かし、遺跡の遠景写真で見られるような高千穂古墳群が存在する丘陵などはそのまま確認することができる。そして遺跡現場自体は、大寺浄水場の南側の小櫃川が北側に大きく屈曲する部分のやや東側の河床であることは、報告書等の図上から推測可能であり、今回はこの地点の現在の実地調査を行なうこととした

 

調査は平成15年1月18日に実施し、撮影はそれぞれ遺跡の北側、西側、南側から行なった。写真1、写真3に見える高架の道路が東京湾アクアライン連絡道であり、写真2はその上から撮影した。写真2では小櫃川が大きく屈曲している箇所が確認でき、菅生遺跡の場所が比較的分かり易い。また写真2右手側は高千穂古墳群のある丘陵、左手側は大寺浄水場である。正確な遺跡の位置に関しては問題もあるが、菅生遺跡周辺の21世紀初頭の様子を「定点撮影」するという意義をこめている。また、近年活発に議論され、本フロンティア事業内においても懸案の一つとなっている画像資料の活用という面からも、遺跡調査時と現状の比較ということで現況の報告を行なった。

 

菅生遺跡において大場氏が発掘を行った正確な位置に関しては、遺跡の失われてしまった現在トレンチの位置など正確には不明な点が多いが、残された写真資料は調査地を特定する手掛かりとなる情報が多く含まれている。こうした細かい調査区がどの部分にあたるかなど、残された課題は大きい。また考古学ばかりではなく昭和13(1938)年当時の菅生における「定点撮影」として他分野の利用も想定できる。当新出資料に限らず広汎にわたる研究利用に供するよう、これからも作業を継続していきたい。

 

なお、菅生遺跡の現地調査や文献収集にあたっては君津郡市文化財センターの光江章氏、木更津市金鈴塚遺物保存館の稲葉昭智氏に多大なるご助力を頂いた。記して謝意を表したい。 (髙野晶文)

〔参考文献〕 『 大場磐雄 1938.3 「上総菅生遺跡(予報第一回)」『考古学』9-3,p109~116,東京考古学会 大場磐雄 1938.5 「地底の宝庫 清川遺跡を発掘して」『科学画報』27-5,p50~51・105~111,誠文堂新光社 大場磐雄 1938.10 「上総菅生遺跡(予報第二回)」『考古学』9-10,p469~480,東京考古学会 大場磐雄 1938.11 「上総清川村菅生遺跡発掘日録」『上代文化』16,p1~9,上代文化研究会 大場磐雄 1939.1 「上総菅生遺跡の一考察(一)」『考古学雑誌』29-1,p1~8,考古学会 大場磐雄 1939.3 「上総菅生遺跡の一考察(二)」『考古学雑誌』29-3,p154~169,考古学会 大場磐雄 1943.2 『日本古文化序説』明世堂 大場磐雄 1948.10 「千葉県木更津市菅生遺跡の研究」『上代文化』18,p1~10,國學院大学考古学会 大場磐雄 1951.4 「菅生遺跡回顧」『房総展望』5-4,p2~4,房総展望社 菅生遺跡調査団・木更津市教育委員会 1973.6 『上総菅生遺跡 -昭和47年度第1期調査速報-』 大場磐雄 1977.1 『大場磐雄著作集第八巻 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 木更津市菅生遺跡調査団編 1980.3 『上総菅生遺跡』中央公論美術出版

2015年1月20日 (火)

淵田弥吉さんテーブルと倉庫の窓の修理を行ってくれる・午後は、伊豆島の屋敷跡の竹林の畑の整備を行う。2015年1月20日2015年1月20日 

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009_1024x683_2 この倉庫の窓(撮影スタジオに使用)は,一昨年の大風の強風で石が飛び、ガラスにひびが入っていたが、アクリル板で補強をして外観はきれいになった。

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午後は、伊豆島の屋敷跡の竹林の畑の整備を耕耘機を使って行った。

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2015年1月17日 (土)

伊豆島の屋敷跡の里山の畑整備を3トンユンボを使って行う・ユンボは里山整備には大事な助っ人。2015年1月17日から18日

今年初めての里山整備を淵田弥吉さん小杉武さんと尾高の3人でおこなった。  3トンユンボのパワーはすごい・1年も放置していた畑をどんどん整備していく。

 

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003_1024x683初めは屋敷跡の畑に積み上げられている藁と枝を深さ約2メートルの穴を3ヵ所ほどユンボで堀り、地中に埋める作業。

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●屋敷跡の畑の整備を終え、午後からは、上の段のヒノキ山の畑の整備・まづはヒノキ山までの道路確保のためにユンボ大活躍・約150メートルほどの山道を1時間ほどで、軽トラックが通れるようになった。これまで長年の念願であった、ヒノキ山の畑への直接の道路が確保された。

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029_1024x683この畑も、ユンボで表土を剥ぎ取り,整地を行った。

030_1024x683_2夕方の4時ごろには、里山の畑の整備を終えた。重機の力のすごさを改めて実感。

2015年1月 3日 (土)

2015年1月3日 孫たちの田舎でのお正月 ・霜柱と氷・凧揚げ・コマ回し 

孫たちは、まだ日が当たらない田んぼに、霜柱と氷を見にかけていく。

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2015年1月 1日 (木)

2015年1月1日 初日の出 弥生時代から米作りが行われていた菅生遺跡周辺にも朝日が。

 

新年あけましておめでとうございます

                   

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

                

木更津中尾伊豆島プロジェクト 尾高俊夫

018_1024x683横浜では、地平線の雲があつく初日の出は8時を過ぎてから雲間から上がってきた。

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004_1024x683_2無農薬で育てた手作りお供え餅。

055_1024x683上総菅生遺跡に朝日・中尾の里山のすぐそばにある菅生遺跡・弥生時代から米作りが行われていた・この小櫃川の右側のカーブしている地点・このことを知ったのはつい半年前のこと・木更津中尾伊豆島プロジェクトの田んぼは、ここ・菅生遺跡から200メートルほどのところにある

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