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2017年3月

2017年3月28日 (火)

お彼岸を過ぎても、今朝の田んぼには薄氷が張った。2017年3月28日早朝8時撮影・木更津市中尾にて。

今朝は、真冬の寒さに逆戻り・田圃を見ると薄氷が張っている。天気予報を検索すると中尾の明け方の温度は5度だが、実際は、0度近くまで下がったのでは・・?

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2017年3月27日 (月)

昨日からの長雨・無農薬田んぼの様子 15時から撮影 2017年3月27日

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妹の一人娘のみどりちゃんが結婚式をまじかに控え、先祖のお墓参りに来てくれた。2017年3月26日

この日は、朝から雨にもかかわらず4か所のお墓のお参りをしてくれた。屋敷跡の敷地の中にある2か所の お墓は、ぬかるんでいるのでみんなで長靴に履き替えてお墓参りを。

この写真は、3番目に行ったお寺の先祖のお墓で家族写真を撮影・みんなの笑顔が印象的。

このお墓からは富士山が東京湾の向こうに裾野から綺麗に見えるビュースポット。

将来は、あちこちにある先祖のお墓を、ここに一つにまとめて祀ろうと考えている。

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みどりちゃんが嫁ぐ彼の家は静岡

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 東京湾の対岸は、横浜港・その向こうに、こんなにきれいに見える・この近くの熊野神社には、江戸時代に築かれた富士講の塚がある。

Images_2 浮世絵・木更津港から富士山を望む・グーグル画像検索より転載

Images_4  小櫃川河口から富士山を望む・グーグル画像検索より転載

Images_6木更津から富士山を望む・東京湾を隔てて、北条氏の小田原まで見える。 グーグル画像検索より転載

子供のころから袖ヶ浦の父の実家に行ったとき・東京湾越しに丹沢と富士山が見え、冬の時期の雪をかぶった丹沢と富士山はいまだに鮮明に思い起こされる。京葉工業地帯が南に南下するにともなって、きれいに見えるポイントも少なくなってきた

富津岬は、東京湾に突き出しているので、子供のころのように丹沢も富士山も箱根もいまだによく見える。

 

 

 

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2017年3月25日 (土)

渕田弥吉 火燃名人の出番 約1時間で大量の孟宗竹を燃やしてしまう。2017年3月25日

快晴・微風・火もしには最適・淵田さんはさっそく手際よく燃やし始める。

Dsc_0063_1024x683中尾の家の前の無農薬田んぼで大量の竹を燃やした。

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Dsc_0071_1024x683約1時間で綺麗に片付いた。感謝、、、。

2017年3月24日 (金)

春爛漫 淵田弥吉さんに手伝ってもらって里山整備(昨年伐採した竹を田んぼへ移動して燃やす準備)。2017年3月23日

1年余り、伐採して放置していた竹を淵田弥吉さんと2人で田んぼに移動して燃やそうとしたが、北風が吹いて来て、この日は、延期。  水路のハナニラは、一斉に咲き・里山の桃は、つぼみをふくらませ、ミツバツツジは、見事に咲き始めた。 里山に放置された竹は、軽トラック10台分もあった。  全部を2人で片づけると、里山に、穏やかな春の日がさしこんできた。

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2017年3月23日 (木)

これからお米作り(無農薬)を始めてみたい人へのメッセージ・弥生時代から米作りが行われた木更津(旧清川村)での無農薬・無化学肥料での米作りにたどりつくまでの軌跡を映像で。日本の無農薬のコメ作りの第一線で真摯に取り組んでおられる皆さんに感謝を込めて。

これらの映像は、ふるさと木更津の地で、先祖の残してくれた土地を、どうしたら再生していけるかを考え、撮影の仕事のかたわら世界中を観て歩いてたどり着いた地点は、アートと無農薬のコメ作りを中心に据えた里山再生だと。(その過程を記録した映像です・撮影・編集 尾高俊夫)

 

 

The Parting Glass

Of all the money that ere I had I spent it in good company. 持っていた金はみな、我が良き友のため使い切った And of all the harm that ere I've done 人を傷つけるようなマネだってしてきたが alas was done to none but me. おっと、それは自分の勝手でやったことだった And all I've done for want of wit to memory now I cannot recall. なんの考えもなくやってしまった事なんて 今さらくよくよ振り返れないじゃないか So fill me to the parting glass Goodnight and joy be with you all. さあ、俺に酒をついでくれ今宵の別れと、みなの成功に乾杯だ

番外編

ほたる野から伊豆島

菅生遺跡 弥生時代の農業水田遺跡

055_1024x683上総菅生遺跡は、この小櫃川の右側のカーブしている地点・小櫃川の河川改修でその大部分は川の中に。

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菅生遺跡 ふるさと歴史講座 2015年1月22日 東清公民館にて 講師 木更津市教育委員会 酒巻忠史主幹

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120_1024x683病院跡から朝日町のジャスコを望む

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Photo_4各写真をクリックすると拡大します。

Photo_6上総大寺廃寺は、中尾の自宅から北に約1,6キロの地点にあります。

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011_1024x683_3上総大寺廃寺石製路盤

016_1024x683_2大寺廃寺は、出土した軒丸瓦の文様(複弁八菜蓮華文}によって、奈良飛鳥の四大寺の一つ川原寺との関連が非常に高いとみられ、この川原寺の創建年代に近い、7世紀後半につくられた上総国最古の寺院と思われます。木更津市教育委員会より転載。

026_1024x701写真の左から2番目が大場磐雄先生

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Photo_2弥生時代の水田跡と飛鳥時代の行政府跡?

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奈良の川原寺のHPへリンク http://www9.plala.or.jp/kinomuku/kawaradera.htm

これ以下はネットからの転載

 

これまでに大場氏による菅生遺跡における調査の写真資料は昭和53(1978)年に出版された『上総菅生遺跡』の他、様々な論文の中で引用されており、その概要が窺える。写真資料に関しても、これらの論文中に度々用いられており、ここではその内容の一部に触れてみたい。

 

調査当時の周辺環境がわかる遺跡の遠景写真・遺構写真は、戦後急速に変化した当地における開発が開始される以前の状況を知る上でも非常に示唆的である。例えば大場氏は『上総菅生遺跡』の報告書中の第1図、第4図、第12図などで、また、参考文献の幾つかの論文における遺跡遠望でも菅生遺跡を中心とした周辺環境を一瞥できる写真を利用している。また河川改修によって流路を何度か変更している小櫃川の昭和初期当時の状況も窺える資料としての意義も看過できない。この他、発掘調査参加者による集合写真、遺物写真なども多数残されている。

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この中には人物を特定できる資料も多い。遺物写真は報告書中に未掲載の遺物出土状況の写真も多数含まれており、土器はもとより大きな成果をあげた木器や木製品などの出土状態なども窺える。

 

本調査と併せて大場氏は周辺の他の遺跡に関しても調査を行なっており、今回の資料中にいくつか認めることができた。確認できた中で2、3例を挙げると相里古墳は昭和13年5月の菅生遺跡第1次、第3回調査の際に大場氏が調査を行なって。『楽石雑筆』の記事からは遺物の出土も認められているが、当資料の中には石室の状態を写した遺構写真が残されている。

 

また大場氏は当調査中、双魚佩や環頭太刀の出土で著名な松面古墳の調査を実施している。松面古墳は調査当時、産業組合病院裏古墳とされ、のち大場氏による『日本古文化序説』の中では元新地古墳、『上総菅生遺跡』中では君津病院内古墳(周辺遺跡の図中では松面古墳)と称されている。調査は菅生遺跡第1次、第4回調査の昭和13年7月に実施されているが、他に当古墳の概要を記した報告等がなされていないため、今回の資料中に存在している石室や墳丘の写真資料は、かなり破壊を受けた段階ではあるが公開する意義が大きい。この他にも菅生遺跡のすぐ北側に位置する古代寺院の大寺廃寺など木更津付近一帯の調査を行っている資料も存在する。

 

次に菅生遺跡の現況について述べてみたい。現在、菅生遺跡では大場氏が調査した地点はその大部分が小櫃川の流路中にあり、原形を留めていない。

また詳細な調査地点に関しても、第1次調査時から65年の時を経て、現地の地理的状況は河川の流れを含めて全く変わってしまい、正確な位置に関する知見を得ることは出来なかった

 

菅生遺跡周辺では、大寺浄水場建設に伴う菅生第2遺跡の調査の後、菅生遺跡も千葉県、木更津市による調査がされており、資料の蓄積が進んでいる。

一方で、大寺浄水場や菅生の西側を南北に伸びて小櫃川をまたぐ東京湾アクアライン連絡道などの開発によって菅生遺跡の取り巻く環境は大きく様変わりしている。また、大きな手掛かりとなる小櫃川の流路が変ってしまい、旧流路が消滅してしまった現在では、遺跡の原状を考察する事は非常に困難である。

かし、遺跡の遠景写真で見られるような高千穂古墳群が存在する丘陵などはそのまま確認することができる。そして遺跡現場自体は、大寺浄水場の南側の小櫃川が北側に大きく屈曲する部分のやや東側の河床であることは、報告書等の図上から推測可能であり、今回はこの地点の現在の実地調査を行なうこととした

 

調査は平成15年1月18日に実施し、撮影はそれぞれ遺跡の北側、西側、南側から行なった。写真1、写真3に見える高架の道路が東京湾アクアライン連絡道であり、写真2はその上から撮影した。写真2では小櫃川が大きく屈曲している箇所が確認でき、菅生遺跡の場所が比較的分かり易い。また写真2右手側は高千穂古墳群のある丘陵、左手側は大寺浄水場である。正確な遺跡の位置に関しては問題もあるが、菅生遺跡周辺の21世紀初頭の様子を「定点撮影」するという意義をこめている。また、近年活発に議論され、本フロンティア事業内においても懸案の一つとなっている画像資料の活用という面からも、遺跡調査時と現状の比較ということで現況の報告を行なった。

 

菅生遺跡において大場氏が発掘を行った正確な位置に関しては、遺跡の失われてしまった現在トレンチの位置など正確には不明な点が多いが、残された写真資料は調査地を特定する手掛かりとなる情報が多く含まれている。こうした細かい調査区がどの部分にあたるかなど、残された課題は大きい。また考古学ばかりではなく昭和13(1938)年当時の菅生における「定点撮影」として他分野の利用も想定できる。当新出資料に限らず広汎にわたる研究利用に供するよう、これからも作業を継続していきたい。

 

なお、菅生遺跡の現地調査や文献収集にあたっては君津郡市文化財センターの光江章氏、木更津市金鈴塚遺物保存館の稲葉昭智氏に多大なるご助力を頂いた。記して謝意を表したい。 (髙野晶文)

〔参考文献〕 『 大場磐雄 1938.3 「上総菅生遺跡(予報第一回)」『考古学』9-3,p109~116,東京考古学会 大場磐雄 1938.5 「地底の宝庫 清川遺跡を発掘して」『科学画報』27-5,p50~51・105~111,誠文堂新光社 大場磐雄 1938.10 「上総菅生遺跡(予報第二回)」『考古学』9-10,p469~480,東京考古学会 大場磐雄 1938.11 「上総清川村菅生遺跡発掘日録」『上代文化』16,p1~9,上代文化研究会 大場磐雄 1939.1 「上総菅生遺跡の一考察(一)」『考古学雑誌』29-1,p1~8,考古学会 大場磐雄 1939.3 「上総菅生遺跡の一考察(二)」『考古学雑誌』29-3,p154~169,考古学会 大場磐雄 1943.2 『日本古文化序説』明世堂 大場磐雄 1948.10 「千葉県木更津市菅生遺跡の研究」『上代文化』18,p1~10,國學院大学考古学会 大場磐雄 1951.4 「菅生遺跡回顧」『房総展望』5-4,p2~4,房総展望社 菅生遺跡調査団・木更津市教育委員会 1973.6 『上総菅生遺跡 -昭和47年度第1期調査速報-』 大場磐雄 1977.1 『大場磐雄著作集第八巻 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 木更津市菅生遺跡調査団編 1980.3 『上総菅生遺跡』中央公論美術出版

最近 突然アクセスが多い 4年前の太郎君のクラスメイトとの稲刈り

2013年9月16日 木更津市中尾 木更津中尾伊豆島プロジェクトの無農薬田んぼにて撮影

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015_1024x778_2佐久間真朗さん(佐久間農機)は子供たちからの稲刈の質問に丁寧に答える。

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P9140216_1024x768_2稲刈をしながら、子供たちは貴重な絶滅危惧の生きものたちを発見。農薬を使わない田んぼでは絶滅を危惧される生きものたちが再生し始めている。

084_1024x683_2タイコウチ Laccotrephes japonensis(太鼓打、英:Water scorpion、ウォータースコーピオン)は、カメムシ目・タイコウチ科に属する水生昆虫の一種。

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2017年3月21日 (火)

お彼岸の3連休明けは雨 昼ごはんは採りたてのフキのとうの天ぷらを渕田さんの奥様につくっていただいた。春の香りが身体いっぱいにひろがる 2017年3月21日

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お彼岸 お墓参り 木更津・密蔵寺 2017年3月20日

Dsc_0001_1024x681_2 今年のお彼岸は3連休 3連休の最後の日は、朝から善光寺のお墓の掃除と墓参り・そのあとは、密蔵寺のお墓参り・周りのお墓も見事に掃除が行き届きお花が挙げられている。  伊豆島のお墓2か所の掃除とお参りをおえ、伊豆島の畑の草刈・伊豆島の屋敷跡の草刈・夕方5時ごろには、なんとか草刈は終了した。へとへとに疲れた一日。

2017年3月18日 (土)

お彼岸の日 小杉さんと中尾の家の庭と里山を3トンユンボを使って景観の大幅変更を行った。2017年3月18日

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Dsc_0006_1024x683梅の木の移植

Dsc_0009_1024x683ミカンの木と梅の木の移植完了

Dsc_0008_1024x6832本のミカンの植樹完了

Dsc_0014_1024x683庭の中心に植えたモミの木が枯れかかってきたので里山に移 植

Dsc_0015_1024x683こんな時、3トンユンボは大活躍

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Dsc_0020_1024x683_3ここもユンボで広く拡張

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鎌足桜を次の世代に手渡しする鎌足の人たちの熱意ある活動 2017年3月

Dsc_0003_1024x683鎌足公民館の前庭に植樹された鎌足桜

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鎌足桜保存活動の拠点の鎌足公民館

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鎌足桜の苗木を育てていただいている方々の活動・この日、鎌足桜保存会のメンバーが苗木を育てている方を訪れ、この後、木更津市内の各学校に配布した。

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近くでロバを飼っている家があった。素晴らしい・ぜひ子供たちに見せてあげたい。

2017年3月12日 (日)

今年から、古代米づくりに挑戦・一番大事な田んぼの水管理のために大溝を掘削。(この地域は、弥生時代から稲作が行われていた地域・菅生遺跡)

木更津市中尾の家の前の無農薬田んぼで

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木更津市中尾の近くを流れる房総半島最大の河川・小櫃川流域は、弥生時代から関東では、一番早く稲作が行われた地域/菅生遺跡  

 

Photo_2約1900年前の弥生時代後期の水田跡が木更津市下望陀(しももうだ)で発見された・芝野遺跡(画面下が小櫃川・小櫃川北岸と高速道路が交わるところが発掘現場。

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千葉県内最古の水田・加藤修司氏解説

木更津市下望陀(しももうだ)で約1900年前の弥生時代後期の水田跡が発見された。 当地の字名から芝野遺跡と名づけられました。

 

水田は、小櫃川のすぐ北側につくられたおり、現在の水田のように整然と区画はされておりません。

大小さまざまな区画の水田が地形に合わせて扇形に広がっています。

畦道や水路、水ぜめをつくるなど、当時の人の工夫が見られます。

水田のそばには、壺や瓶といった、当時の生活用具が1列に並んで出土しています。  人々が水田に向かって、豊作を祈ったものでしょうか。

木更津市は、東京湾に面して、東海地方との交流が盛んであったことから、西方の稲作文化をいち早く取り入れたと思われます。

 

周辺にも水田は広がっており、すでに弥生時代のこの地域では、広い範囲で水田耕作を行っていたことがうかがえます。(加藤修司)

菅生遺跡(弥生時代から古墳時代にかけての水田跡)は、芝野遺跡の下流約3キロのところにある。

055_1024x683上総菅生遺跡は、この小櫃川の右側のカーブしている地点・小櫃川の河川改修でその大部分は川の中に。

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芝野遺跡から小櫃川を約3キロ下ったところに弥生時代の水田跡・菅生遺跡がある。 ふるさと歴史講座 2015年1月22日 東清公民館にて 講師 木更津市教育委員会 酒巻忠史主幹

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120_1024x683病院跡から朝日町のジャスコを望む

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Photo_4各写真をクリックすると拡大します。

Photo_6上総大寺廃寺は、中尾の自宅から北に約1,6キロの地点にあります。

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011_1024x683_3上総大寺廃寺石製路盤

016_1024x683_2大寺廃寺は、出土した軒丸瓦の文様(複弁八菜蓮華文}によって、奈良飛鳥の四大寺の一つ川原寺との関連が非常に高いとみられ、この川原寺の創建年代に近い、7世紀後半につくられた上総国最古の寺院と思われます。木更津市教育委員会より転載。

026_1024x701写真の左から2番目が大場磐雄先生

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Photo_2弥生時代の水田跡と飛鳥時代の行政府跡?

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奈良の川原寺のHPへリンク http://www9.plala.or.jp/kinomuku/kawaradera.htm

これ以下はネットからの転載

 

これまでに大場氏による菅生遺跡における調査の写真資料は昭和53(1978)年に出版された『上総菅生遺跡』の他、様々な論文の中で引用されており、その概要が窺える。写真資料に関しても、これらの論文中に度々用いられており、ここではその内容の一部に触れてみたい。

 

調査当時の周辺環境がわかる遺跡の遠景写真・遺構写真は、戦後急速に変化した当地における開発が開始される以前の状況を知る上でも非常に示唆的である。例えば大場氏は『上総菅生遺跡』の報告書中の第1図、第4図、第12図などで、また、参考文献の幾つかの論文における遺跡遠望でも菅生遺跡を中心とした周辺環境を一瞥できる写真を利用している。また河川改修によって流路を何度か変更している小櫃川の昭和初期当時の状況も窺える資料としての意義も看過できない。この他、発掘調査参加者による集合写真、遺物写真なども多数残されている。

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この中には人物を特定できる資料も多い。遺物写真は報告書中に未掲載の遺物出土状況の写真も多数含まれており、土器はもとより大きな成果をあげた木器や木製品などの出土状態なども窺える。

 

本調査と併せて大場氏は周辺の他の遺跡に関しても調査を行なっており、今回の資料中にいくつか認めることができた。確認できた中で2、3例を挙げると相里古墳は昭和13年5月の菅生遺跡第1次、第3回調査の際に大場氏が調査を行なって。『楽石雑筆』の記事からは遺物の出土も認められているが、当資料の中には石室の状態を写した遺構写真が残されている。

 

また大場氏は当調査中、双魚佩や環頭太刀の出土で著名な松面古墳の調査を実施している。松面古墳は調査当時、産業組合病院裏古墳とされ、のち大場氏による『日本古文化序説』の中では元新地古墳、『上総菅生遺跡』中では君津病院内古墳(周辺遺跡の図中では松面古墳)と称されている。調査は菅生遺跡第1次、第4回調査の昭和13年7月に実施されているが、他に当古墳の概要を記した報告等がなされていないため、今回の資料中に存在している石室や墳丘の写真資料は、かなり破壊を受けた段階ではあるが公開する意義が大きい。この他にも菅生遺跡のすぐ北側に位置する古代寺院の大寺廃寺など木更津付近一帯の調査を行っている資料も存在する。

 

次に菅生遺跡の現況について述べてみたい。現在、菅生遺跡では大場氏が調査した地点はその大部分が小櫃川の流路中にあり、原形を留めていない。

また詳細な調査地点に関しても、第1次調査時から65年の時を経て、現地の地理的状況は河川の流れを含めて全く変わってしまい、正確な位置に関する知見を得ることは出来なかった

 

菅生遺跡周辺では、大寺浄水場建設に伴う菅生第2遺跡の調査の後、菅生遺跡も千葉県、木更津市による調査がされており、資料の蓄積が進んでいる。

一方で、大寺浄水場や菅生の西側を南北に伸びて小櫃川をまたぐ東京湾アクアライン連絡道などの開発によって菅生遺跡の取り巻く環境は大きく様変わりしている。また、大きな手掛かりとなる小櫃川の流路が変ってしまい、旧流路が消滅してしまった現在では、遺跡の原状を考察する事は非常に困難である。

かし、遺跡の遠景写真で見られるような高千穂古墳群が存在する丘陵などはそのまま確認することができる。そして遺跡現場自体は、大寺浄水場の南側の小櫃川が北側に大きく屈曲する部分のやや東側の河床であることは、報告書等の図上から推測可能であり、今回はこの地点の現在の実地調査を行なうこととした

 

調査は平成15年1月18日に実施し、撮影はそれぞれ遺跡の北側、西側、南側から行なった。写真1、写真3に見える高架の道路が東京湾アクアライン連絡道であり、写真2はその上から撮影した。写真2では小櫃川が大きく屈曲している箇所が確認でき、菅生遺跡の場所が比較的分かり易い。また写真2右手側は高千穂古墳群のある丘陵、左手側は大寺浄水場である。正確な遺跡の位置に関しては問題もあるが、菅生遺跡周辺の21世紀初頭の様子を「定点撮影」するという意義をこめている。また、近年活発に議論され、本フロンティア事業内においても懸案の一つとなっている画像資料の活用という面からも、遺跡調査時と現状の比較ということで現況の報告を行なった。

 

菅生遺跡において大場氏が発掘を行った正確な位置に関しては、遺跡の失われてしまった現在トレンチの位置など正確には不明な点が多いが、残された写真資料は調査地を特定する手掛かりとなる情報が多く含まれている。こうした細かい調査区がどの部分にあたるかなど、残された課題は大きい。また考古学ばかりではなく昭和13(1938)年当時の菅生における「定点撮影」として他分野の利用も想定できる。当新出資料に限らず広汎にわたる研究利用に供するよう、これからも作業を継続していきたい。

 

なお、菅生遺跡の現地調査や文献収集にあたっては君津郡市文化財センターの光江章氏、木更津市金鈴塚遺物保存館の稲葉昭智氏に多大なるご助力を頂いた。記して謝意を表したい。 (髙野晶文)

〔参考文献〕 『 大場磐雄 1938.3 「上総菅生遺跡(予報第一回)」『考古学』9-3,p109~116,東京考古学会 大場磐雄 1938.5 「地底の宝庫 清川遺跡を発掘して」『科学画報』27-5,p50~51・105~111,誠文堂新光社 大場磐雄 1938.10 「上総菅生遺跡(予報第二回)」『考古学』9-10,p469~480,東京考古学会 大場磐雄 1938.11 「上総清川村菅生遺跡発掘日録」『上代文化』16,p1~9,上代文化研究会 大場磐雄 1939.1 「上総菅生遺跡の一考察(一)」『考古学雑誌』29-1,p1~8,考古学会 大場磐雄 1939.3 「上総菅生遺跡の一考察(二)」『考古学雑誌』29-3,p154~169,考古学会 大場磐雄 1943.2 『日本古文化序説』明世堂 大場磐雄 1948.10 「千葉県木更津市菅生遺跡の研究」『上代文化』18,p1~10,國學院大学考古学会 大場磐雄 1951.4 「菅生遺跡回顧」『房総展望』5-4,p2~4,房総展望社 菅生遺跡調査団・木更津市教育委員会 1973.6 『上総菅生遺跡 -昭和47年度第1期調査速報-』 大場磐雄 1977.1 『大場磐雄著作集第八巻 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 木更津市菅生遺跡調査団編 1980.3 『上総菅生遺跡』中央公論美術出版

 広島県安芸高田市向原 ふるさと広島の里山 広島出身の奥 克彦さん

奥 克彦さんのふるさと(広島)で購入した里山の家

奥 克彦さんのふるさと(広島)で購入した里山

 

田植をする 奥 克彦さん木更津中尾伊豆島プロジェクトの田んぼで。

 奥 克彦さん木更津中尾伊豆島プロジェクトの畑で。

2017年3月10日 (金)

大坪城址・戦国時代の史跡 (木更津市矢那字大坪)鎌足桜保存会の小林さんに案内してもらった。

Photo_2宇宙から見る 大坪城址 縮尺290m

Photo_3宇宙から見る 大坪城址 縮尺109m/strong>

 

この資料は鎌足地誌からの転載です。

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 この地図のニノ丸跡は,矢那大坪 古藤田氏が、高見場跡には大鐘氏が住んでいる。鎌足歴史散歩の会からの転載。

Dsc_0022_1024x683矢場跡が現在でも残っている

Dsc_0026_1024x683本丸跡方向を望む

Dsc_0021_683x1024_3諏訪神社の石段

Dsc_0028_1024x683山頂には諏訪神社

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Dsc_0032_1024x683_2道の左側が本丸跡

Dsc_0033_1024x683本丸裏の外堀方向を望む

 

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徳蔵寺 真言宗豊山派 木更津市矢那 このお寺には、鎌足桜の保存に尽くした鈴木治作さんのお墓がある。

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鎌足桜保存会の育成畑を見学/ 保存会の小林さんの案内で。               

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Dsc_0002_1024x6831か所目の育成畑

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Dsc_0004_1024x6832か所目の育成畑

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2017年3月 9日 (木)

ふるさと歴史講座の講師 永井義雄先生が亡くなった・・・。もっと江戸時代の西上総の話を聞きたかった・・・残念で仕方がない・・・合掌。2017年3月9日

今年度最後のふるさと歴史講座で、永井義雄先生が亡くなったことを知り、全員で1分間の黙とうを行った。

2年前に永井義雄先生の講演・江戸時代の西上総よもやま話を再現してみた。

江戸時代(幕末)の私の先祖の伊豆島村の様子が、リアルに永井先生の講演で初めて見えてきた。村のコメの生産量は(村高)552,35268(約552石)で、62軒 給数(村に複数の領主)6 内訳は、幕府領・旗本朝倉・跡部・河野・佐野・小宮山で 552石の約35パーセントが、6件の領主に年貢として納められていたとのこと。

一石は225キログラム・上田で1反あたり1石5斗(225キログラム)平均的農家では、約5反の田んぼを所有したいた(約1500坪)自作農が大部分であった。  領主との関係が希薄で、名主クラスでも領主の名前を知らない。藩領に比べて負担が少ない・年貢は決められた石高の35パーセント。実質上、農村は農民たちの自治で運営されている。

農民の年間の休みは、約100日。 収入は、村の組頭(富津では)で年30両で支出は20両。という具体的な話を、初めて聞き、目から鱗・・感動。 後半は、戊辰戦争で活躍した、請西藩主 林忠宗の生涯・この話ももっと時間を作っていただき、もっともっと話を聞きたいと思う。


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資料 ネットからの転載  江戸時代の農民自治成立の背景  

斎藤幸雄 HP ( 47 愛知 建築設計 ) 10/10/16 AM01 【印刷用へ】 >「村はかつて、実質的には自治組織であった。その性格を短い言葉で表現すると、布施=ボランティアの精神を根底にもちながら、独立精神と主義主張と結束力をもちあわせ、それが侵されようとするときには、一揆をもって応える、という、高く深く、やさしくしたたかな存在だった。」(210686) 江戸時代に、農村の自治が実現できたのは何故か?その背景を調べてみました。

戦国期に始まる兵農分離政策により、農村は完全に農民の自治に委ねられることになり、江戸時代を通じて“共同体”が維持され続けてきたようです。

以下、KNブログ「日本史についての雑文その4 兵農分離」から一部抜粋・編集(リンク)

■戦国期 旧来の封建領主の支配地域において自治を求める農民の動きが出てくる。封建領主からの自立と自治を求める農民の動きに地侍が乗っかって一揆を形成し、それが拡大し、また再編成されて戦国大名の家臣団が形成されていく。

信長は、兵農分離政策を実施し支配下の武士を農村から分離した。これにより武士を経済的に弱体化させることによって手懐けて、その軍事力のみを純粋に特化させて自己の軍事力の強大化を図った。

そして武士を切り離した農村は、完全に農民の自治に委ねられた。そのために検地を行い土地の所有者は封建領主ではなく、実際に田畑を耕す農民自身であるということなった。さらに農村からは武器を取り上げて変な輩が勝手に支配権を振るったり出来ないようにした。これらによって余計な中間搾取者や武器を持って暴れる者もいなくなり、農村は平和で豊かになった。

このように、土地を取り上げた武士を都市部に集め、武器を取り上げた農民による自治に農村は委ねるという政策が兵農分離だった。この兵農分離によって武士を経済的に弱体化して権力の支配下に置き、軍事力を権力の元に一元管理するという、新たな形の中央集権体制は江戸幕府の体制に引き継がれることになる。

■江戸時代 戦国期の自治農村の自治組織を構成していた武士達が兵農分離で江戸へ連れてこられて幕府組織を形成した。他方、武士を排除することで農村はもっと純粋な形での自治農村となることになった。

これは農村自治を前提とした変則的な中央集権体制で、むしろ武士を土地から隔離することに主眼が置かれていたともいえる。武士階級を権力の手元に隔離しておくために、権力、つまり幕府が武士の生活の面倒を見なければならなくなった。こうして、武士階級の弱体化には成功するが、その後、経済が成長するにつれて武士階級の存在が幕府財政を悪化させ、さらに経済成長の足を引っ張ることになってくる。

2017年3月 6日 (月)

鎌足桜を保存して次の世代につなげるのは大阪のおじいさん尾高荘と矢那のおじいさん鈴木治作の願いだった。

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佐野籐右衛門・尾高恒徳 かずさアカデミアホールに

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鎌足桜を守った父を持つ2人息子たち 尾高恒徳・鈴木彰

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鎌足桜を木更津市伊豆島に植樹

 

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3年前に、鎌足桜を孫たちが植えた時の様子。木更津市中尾

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011_1024x683夕方に午前中に植えた鎌足桜に孫2人で水やり

 

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鎌足桜保存会視察研修会にて、日本さくらの会浅田信行先生の熱いメセージに感動。(鋸南町・頼朝桜まつり・佐久間ダム湖親水公園にて)

鎌足桜保存会視察研修会2017年3月5日

日本さくらの会浅田信行先生の熱いメセージに感動 

 

鋸南町佐久間ダム親水公園へ

 

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これ以降は、以前撮影した映像です。  佐野籐右衛門・尾高恒徳 かずさアカデミアホールに

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鎌足桜を守った父を持つ2人息子たち 尾高恒徳・鈴木彰

 

撮影‣木更津中尾伊豆島プロジェクト 尾高俊夫

2017年3月 4日 (土)

立ち上がらない雑草魂 静岡大学 教授 稲垣栄洋(ひでひろ)先生

静岡大学大学院教授 稲垣栄洋先生 (このページはすべてネットからの転載です・読んでいたら面白く、ぜひ一読してください)  

 「踏まれても踏まれても立ち上がる」 雑草にそんなたくましいイメージを持つ人も、少なくないでしょう。 確かに、1度や2度踏まれたくらいでは雑草は立ちあがってきます。しかし、何度も何度も踏まれると、雑草は立ちあがらなくなります。「踏まれても踏まれても立ち上がる」という雑草のイメージは、じつは人間の幻想なのです。 だからといって、雑草の生き方が「たくましくないか」と言えば、そんなことはありません。 そもそも、どうして立ち上がらなければならないのでしょうか。

植物にとって、もっとも重要なことは何でしょう。それは花を咲かせて、種を残すことです。踏まれても立ち上がるという無駄なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながら花を咲かせることを考える方が合理的です。そして、踏まれながら種をつけることの方がずっと大切です。そのため、雑草は無駄に立ち上がるようなことはしないのです。踏まれやすい場所を見ると、雑草は地べたに葉を広げていたり、横に寝そべって伸びていたりします。こうして暮らしていれば、踏まれてもダメージがあまりありません。そして、たくわえたエネルギーを使って花を咲かせ、種をつけるのです。

がむしゃらに立ち上がろうとするよりも、雑草の生き方はずっと「したたか」なのです。 それだけではありません、雑草にとっては、踏まれることは何も「耐え忍ぶこと」とは限りません。 オオバコという雑草は、道ばたによく生えている雑草です。この雑草が道ばたでよく見られるのには理由があります。

オオバコの種は、水に濡れるとベタベタして、くっつきやすくなります。そして、人に踏まれると靴の裏に種がくっついて、遠くまで運ばれていく仕組みになっているのです。こうして種が運ばれた先は、やっぱり人が通る踏まれやすい場所です。こうしてオオバコは道に沿って分布を広げていくのです。

タンポポが風に乗せて種を運ぶように、オオバコは踏まれることによって種を運びます。 こうなるとオオバコにとって、踏まれることは、もはや耐えることではありません。種を運ぶためには、踏まれないと困ってしまうのです。道ばたのオオバコはどれもが、「踏んでほしい」と思っているはずです。

雑草にとって、困難な環境は、耐えたり、克服するだけのものではありません。困難な逆境を積極的に利用して成功することこそが、雑草の生き方の真骨頂なのです。

ところで、雑草は踏まれやすい道ばたによく生えています。 そもそも、雑草はどうして踏まれるような場所に生えているのでしょうか。 雑草は「強い植物」というイメージがありますが、実際にはけっして強い植物ではありません。むしろ、雑草は「弱い植物である」とされています。

じつは、雑草は他の植物との競争に弱い植物です。そのため、雑草は強い植物が生い茂るような深い森には生えることができません。そして、強い植物が生えることのできないような困難な環境を選んでいます。それが、よく踏まれる道ばただったり、よく草取りが行われる空き地だったりするのです。雑草は戦略的に強い植物との競争を避けています。何気なく、どこにでも生えているわけではないのです。

自然界は弱肉強食、適者生存の厳しい社会です。強い者が生き残り、弱い者は滅びる。これが自然界の掟です。しかし、だからと言って、強い生き物しか生き残っていないかというと、そうでもないところが、自然界の面白いところです。自然界を見渡してみると、弱そうに見えるたくさんの動植物たちが自然を謳歌しています。

しかし、厳しい自然界を生き抜くためには、まったくの無策というわけにはいきません。今、私たちの身の回りにいる生き物は、自然界を生き抜いているという点で、どれもが「成功者」です。そして、弱い彼らが生き残るためには、かならず戦略があります。彼らはどれもが「優れた戦略家」なのです。

弱い植物である雑草にとって「戦わないこと」は、とても重要な戦略です。 戦わない戦略にとって、重要な方法の1つは「ずらす」という戦略です。 踏まれる場所に生える雑草は、他の植物と「生える場所をずらす」という戦略です。 それ以外にも「時期をずらす」という戦略もあります。

タンポポには昔から日本にある日本タンポポと外国から帰化した西洋タンポポとがあります。同じタンポポですが、日本タンポポと西洋タンポポとは戦略が違います。 西洋タンポポは春だけでなく、1年中、花を咲かせます。そして、競争相手となる他の植物が生えにくいような道ばたや空き地に生えています。つまり場所をずらす戦略です。

西洋タンポポが一年中、花を咲かせるのに対して、日本タンポポは、春だけに花を咲かせます。そして、花が咲き終わり、種を飛ばし終わると、日本タンポポは自ら葉を枯らせてしまうのです。もちろん、実際に枯れてしまったわけではありません。土の中の根だけを残して、眠ってしまうのです。夏の間、土の中で過ごすこの戦略は、夏に眠ると書いて「夏眠」と呼ばれています。つまり、冬眠の逆です。

どうして、植物の成長に適しているはずの夏の季節にわざわざ眠ってしまうのでしょうか。 夏になると競争相手となる他の植物が生い茂ります。そうすると小さなタンポポには光が当たらなくなってしまうのです。そのため、日本タンポポは春の早いうちに花を咲かせ、他の植物が伸びてくる前にタネをつけてしまうのです。そして、無駄な戦いをすることなく、さっさと眠ってしまうのです。これが時期をずらす戦略です。

このずらす戦略によって、日本タンポポは他の植物が生えるような草むらに生えることができるのです。 植物は動くことなく、平穏な暮らしをしているように見えるかも知れませんが、そんなことはありません。枝や葉は光を奪い合い、見えない土の中では根が栄養分や水を奪い合います。植物たちもまた、常に激しい生存競争を繰り広げているのです。弱い植物である雑草は、勝てない相手と競争するよりも、踏まれたり、抜かれたりする逆境を選びました。雑草はこうして、踏まれる環境に生えています。そして、踏まれたら立ち上がることなく、暮らしているのです。

「踏まれても立ち上がらない」、「強い植物とは戦わない」  雑草のこの戦略を、皆さんは情けないと思うでしょうか。

雑草にとって大切なことは、立ち上がることでも、強い植物に立ち向かうことでもありません。大切なことは「種を残すこと」です。雑草は、ただこの目的に対して最大限で合理的な努力をしています。大切なことを見失わない生き方。これこそが本当の「雑草魂」なのです。

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