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2017年12月

2017年12月28日 (木)

高柳銚子塚古墳(南北に全長142mで千葉県第2位の大きさの前方後円墳) 千葉県に古墳が多いのはなぜ・・?

Dsc_0006_1280x853_2南より古墳を観る

Dsc_0007_1280x853_2北より古墳を観る

Dsc_0012_853x1280_2古墳中腹から南方向を観る

以下の記事はネットからの転載です・感謝

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高柳銚子塚古墳(たかやなぎちょうしづかこふん)は、千葉県木更津市にある前方後円墳である。

概要[編集] 金鈴塚古墳など後期首長系古墳の群在する祇園・長須賀古墳群の北方1.8キロの砂丘状に単独で立地する。

主軸を南北に向ける前方後円墳であったが、明治末年の鉄道工事の際に前方部が破壊され、戦時中に陸軍高射砲指揮所の設置により後円部中央が大きくえぐられた。墳丘から埴輪が採取されており、5世紀中頃の築造とみられる。

ネットからの転載です・感謝

古墳が現在たくさん残っているというのは2つの理由があります。

1 古墳時代は重要な拠点(大きな国)があった。

2 その後の開発等で古墳を破壊することがなかった。

先に回答されている方がいうとおりに、他の地域ではその後の開発で古墳の多くが壊されています。つまり、千葉は他の地域であったような開発が現代になるまでそれほどなかったということです。

もう一つについては、千葉は古代は重要拠点であったことがわかっています。地図を見ると千葉南部(上総の国)あたりは山がちです。

古代の関東平野は湿地帯だらけでした。このため武蔵国はかつて東山道に属しており、西からのルートは上野国経由で南下した方が便利だったとことがわかっています。そうなると、太平洋側の地に行くには、武蔵経由ではなく、相模から船にのって向かいの地に渡った方が便利でした。このため、千葉の南部が都に近い「上」総で、千葉の北部が都から遠い「下総」となったわけです。

このように、太平洋側の地域に行くための重要拠点であったため、阿波にいた忌部氏が移住してきた土地が安房国だというような伝承も残っています。また、ヤマトタケルの東国遠征でも三浦半島から上総国に渡ってから北上するなど古代においても重要なルートでした。日本の古代の丸木船の多くが千葉で見つかっています。

このようなことから、安定した台地をもち、東海地方と東北関東の太平洋側の地域との交流拠点であったことから古来から「総(ふさ)」の国は様々な豪族たちがひしめき栄えており、のちに上総、下総に分割されるぐらいに豊かな地方だったと考えられています。

ところが、奈良時代の後半にもなると武蔵国の開発が進み、東山道から東海道に属するようになると房総半島の大半が主要交通ルートから外れてしまい、それらの地域は重要な拠点とはみなされてなくなってしまいました。

 

2017年12月27日 (水)

木更津・高柳にあった至徳堂/今から200年前の西上総で始まった先進的な庶民教育の場(銚子塚古墳の南面)を観に行く・JR内房線の線路脇にあった。

至徳堂物語を読み始めて、現地を観てみたくなり早速向かった。

中尾の家からは約5キロ、JR内房線の近くまで 行き、田んぼを見渡したら2つ丘のある銚子塚古墳が線路脇にある。

近づいていくと、やはり高柳銚子塚古墳だ(南北に全長142m千葉県第2位の大きさ)。

古墳の南側の中腹に碑が笹薮から頭を出している。   

そばまで行くと、農家の方が田んぼで、切り株などをもやしていた。

 思い切って至徳堂跡は、どこかを訪ねると・・・。

ここの畑がそうだと教えてくれた。

2つ丘のある銚子塚古墳は海軍の木更津航空隊の建設と同時に、この古墳に高射砲陣地を作り、  戦争末期に鉄が足りなくなったのでを爆破して、鉄をとりだしたので、真ん中が窪んで2つの丘に なったと教えてくれた。  

この銚子塚古墳は、千葉県で2番目の大きな前方後円墳だが、明治時代にも、鉄道を通すために古墳の前方部分をけづって線路を敷設。

古墳の中腹にある至徳堂関連の碑に立つと線路越しに富士山が大きく見える。

 1817年・至徳堂は、この古墳の丘の足元に造られたとのこと。

昭和23年に故郷木更津で生まれ、1年ほどして千葉に引っ越し、それから60年も、この内房線でふるさと木更津に通っていたが、何百回も通って車窓から見たの目の前の景色の中に銚子塚古墳があり、至徳堂跡があることを今日まで知らなかった。

 

今日、はじめてこちら側に立ち、内房線の電車をみると、ふるさと木更津のいろいろな事が頭の中でつながっていくのを感じた。

至徳堂研究 近世地域教育の一断面―上総の郷学「至徳堂」の歴史 単行本 – 2014/6三浦 茂一 (著)

昭和4(1929)年4月8日~ 昭和期の歴史家。千葉県史編纂室主幹。編著書に「千葉県議会史」「角川日本地名大辞典・千葉県」など。

2017年12月26日 (火)

上総の郷学(ごうがく・きょうがくともいう)について。 志徳堂(しとくどう)物語・至徳堂を知る会編・著 平成29年12月1日・やまがら企画発刊(今から200年前の西上総で始まった先進的な庶民教育の場)

Dsc_0001_934x1280_2   志徳堂物語 平成29年12月1日発刊・やまがら企画

◎この関連記事をネット検索を行った。

千葉県のHPより

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かねだしょうこう文政6年(1823)の扁額に「金田庄黌」とあり、文政7年(1824)の扁額には「至徳堂(しとくどう)」とある

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しょうがくがんげい

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明治維新によって急速な近代化に成功した理由の一つとして、江戸時代の末までに、すでに広範な教育が普及していたことがあげられる。 それを担ったのが幕府の昌平坂学問所から藩校・私塾・郷学・寺子屋やまでの様々な教育機関である。郷学は庶民の指導者教育を担った教育機関で、なんらかの公的保護・監督を受けた点が寺小屋と違っている。

 金田庄黌(かねだしょうこう)は近隣の庶民を教育する目的で、文化14年(1817)に名主の願いにより、現在の木更津市高柳小字塚之腰に設立された郷学である。文政6年(1823)の扁額に「金田庄黌」とあり、文政7年(1824)の扁額には「至徳堂」とある。金田庄黌あるいは至徳堂と称されていたことは明らかであるが、その使い分けや前後関係の事情は明確ではない。教授、助教、館頭、館正などの職掌があり、郷学としての組織が整えられていた。

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高柳銚子塚古墳(南北に全長142mで千葉県第2位の大きさの前方後円墳)左に内房線の線路 戦前に鉄道を通すために銚子塚古墳の前方部分が破壊され、また戦争中は、高射砲台座になり破壊され、戦争末期には、鉄を回収するために爆破したので、このように真ん中が吹き飛んでいる。

Img_1写真上が北・すぐ左側を内房線の線路(ネットより転載・感謝)。

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高柳銚子塚古墳にある至徳堂関係の石碑

扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。

扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、体育館、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。特に神社に掲げられている額を「神額」、寺社に掲げられている額を「寺額」という。扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある

 資料は、設立や経営・行事にかかわる文書9点、教科書や教授関係者の蔵書であった典籍9種72点、扁額2点である。以上は、千葉県のHPからの転載です。感謝。

関山邦宏氏の画期的な研究発表・上総の郷学至徳堂について - 和洋女子大学学術リポジトリ https://wayo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common... 関山邦宏 著 - ‎1989 ネット上にPDFファイルで公開されています(18ページあります)

千葉教育』第四八七号、 昭和七年) によって、 現在まで伝えられきたとい っても過言ではないだろう。 ちなみに、 「広範で丹念に克集. された資料をもとに、 客観的で真摯な態度に立脚して編集ないし執筆された内容を糾z少」 教育史の 一 といわれる 「千葉県教育史』 はそ. の 「巻一 」 (昭和十 一 年) で至徳堂にも言及群鴉 (三八八頁以下) が、 その記述内容は鈴木論文のほぼ全文引用と若干の関係者の略伝で. 構成されている。 また市政施行:干周年を記念して刊行された大著 『木更津市史』 (昭和四十七年) もほぼ同様 ...

◎至徳堂関係資料・木更津市立図書館HPから観ることができます。

http://www.city.kisarazu.lg.jp/resources/content/40713/20140618-111337.pdf

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この2枚の写真は、クリックすると拡大し、フリガナが読めます。

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◎郷学とは・・? 「きょうがく」と読む説も有力。郷校、郷黌(ごうこう)、郷学所、郷学校、明治期には義校とも称した。江戸時代から明治初年にわたって存在した武士・庶民のための領主公認の教育機関で、次の三つに大別される。

〔1〕藩が領内の僻地(へきち)に、また藩主の支族・重臣らの所領に設けた陪臣のための学校。会津、秋田、盛岡、萩(はぎ)、佐賀、熊本など辺地の大藩に例が多い。

〔2〕藩主・代官、民間有志が庶民教育のために設立し、藩主や地頭(じとう)がこれを補助したり、嘉納して保護・監督にあたって運営した学校。岡山藩が1668年(寛文8)領内に設けた手習所(123か所)の例が古く、有名である(のち閑谷(しずたに)学校に統合)。

〔3〕これらのなかで、とくに民衆の自主性や内発性に支えられて設立された庶民のための学校で、民衆が公的教育を要求する運動の所産とみられるもの。

 いずれも儒学を中心に、文武あるいは書算を授け、未成年者、成人を一体的に対象とした生涯教育型のものが多い。全期間を通じ、全国に1000余校の郷学が設立されたが、多くは明治初年に集中している。

 いわゆる第三種郷学とよばれる〔3〕の代表例は、摂津国平野(ひらの)郷(大阪市東住吉区)の含翠堂(がんすいどう)(当初、老松堂(ろうしょうどう))で、1717年(享保2)郷民の教育機関として設立され、1872年(明治5)の学制頒布まで続いた。

中世末の自治都市平野郷町以来の、地域の有力者からなる同志の寄金により維持されており、大坂近郊在郷町の商人地主層の教育文化活動の一環である。かたわら賑給(しんきゅう)料とよぶ基金を備蓄し、飢饉(ききん)時の救済活動も行っている。含翠堂では、以下のような、次の時代の公教育につながる諸要素が指摘されている。

(1)その教育は儒学が中心であるが、特定の学統によらず、町人としての実践道徳に重点を置き、封建的身分制を超えた人間性の問題を提起している。

(2)設立維持者と教師とが分離している。

(3)教育は教師に任されている。

(4)経済的基礎は有志人民の共同出資によっている。

(5)権力に公認されている。

 学制に先だつ1869年(明治2)京都の町組により設立された小学校、71年開校の武蔵(むさし)国南多摩(みなみたま)郡小野路(おのじ)村(東京都町田市・多摩市)の郷学などは、いずれも地域の有力者たちが、新時代の人材養成のため設立・維持したものである。

小野路郷学からは後年の多摩自由民権運動の指導者たちが育っている。郷学の内容は多様であるが、全般に支配者層の教化策によるものも多く、民衆の教育要求や、運動の評価については、今後の研究にまたれる。

しかし郷学は、明治期「学制」以後の日本の公立学校や公教育制度の前史に一定の位置を占めるものであった。

[木槻哲夫] 『津田秀夫著『近世民衆教育運動の展開』(1978・御茶の水書房) ▽石島庸男著「京都番組小学校創出の郷学的意義」(『講座日本教育史2』所収・1984・第一法規出版) ▽石川謙著『日本学校史の研究』(1960・小学館) ▽文部省編『日本教育史資料 3』復刻版(1970・臨川書店) ▽梅渓昇・脇田修編『平野含翠堂史料』(1973・清文堂出版)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

郷学の関連キーワード |岡山(県) |板倉勝明 |池田光政 |小池琴河 |池田治政 |教諭所 |閑谷黌 |郷学

2017年12月25日 (月)

今年最後の重機を使っての裏山の整備は、陽がくれるまで小杉さんと2人で行った。 2017年12月24日

今年も。3トンユンボの強力なパワーには感謝

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 先週から温室を撤去し、斜面の草刈を行い、家の前の広場が大幅に広がった。

2017年12月24日 (日)

ふるさと歴史講座 佐倉順天堂記念館・旧堀田邸・堀田家菩提寺甚大寺・武家屋敷 2017年12月21日

佐倉順天堂は、天保14年(1843)佐藤泰然が開いたオランダ医学塾兼診療所。 多数の門人の医学教育と先進的外科手術が行われた。

佐倉に源を発した医学の流れが現在の順天堂大学へとつながる。(sakura guide mapより転載)

明治時代に佐倉に移り住んだ最後の佐倉藩主堀田正倫の邸宅と芝生の美しい明治様式の庭園。(sakura guide mapより転載)

堀田家菩提寺甚大寺と墓所

武家屋敷・旧河原家・旧但馬家・旧武居家 武士の住まい3棟を復元

2017年12月20日 (水)

源氏蛍‣トウキョウサンショウウオそしてジャコウアゲハ・ニホンタンポポなどが生息する貴重な里山環境。年末の大掃除を行った。2017年12月20日

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Dsc_0049_1280x853_2ビオトープの整備を終え・見上げると

2017年12月19日 (火)

里山の家の西側の水路の草刈を行った。2017年12月19日

西側の水路の脇には、幹回り約5m50センチ・樹齢約300年のスダジイの大木がある

革命的な水質浄化 杉山倫義(ともよし)氏67才・開発のバクチャーyoutubeから紹介

2017年12月18日 (月)

田窪恭治作品のコルクをこの冬、家の周りにひいてみよう。

Dsc_0008_1280x834_2庭の真ん中の柿の木の下に昨年田窪恭治氏が設置した(感覚細胞2016)・このコルクを中心に庭のあちこちに、この冬施工する計画。

Dsc_0001_1280x853_5玄関前にテストで一部を設置して、感じをみた。 この袋、1つの袋の重さは250キロぐらいなので、ユンボを使って移動を行った。

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2017年12月17日 (日)

3トンユンボを使って家のまわりの里山整備(約600坪)・温室解体処分と周辺の整備。 2017年12月17日

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この日。午後2時過ぎから、小杉さんと2人で、気軽にコルクをユンボで移動することから始めたが、だんだん大規模になって不要な温室の撤去・伐採した竹の処分までを暗くなった5時すぎまで行った・へとへと・・・・。

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次の日、3トンユンボで、切り開いた場所の仕上げ整備を1日かけて何とか終了した。

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2017年12月15日 (金)

紀元前からルネッサンスまでの約2500年の歴史・ギリシャ人の物語3巻完結・塩野七生・作家。そして世界史20話をHistoria Mundi先生(山崎圭一先生のYouTube授業で勉強し直してみよう。

世界史20話をHistoria Mundi先生(山崎圭一先生)のYouTube授業で勉強し直してみよう。Historia Mundi(ヒストリア ムンディ)先生は昭和50年1975年福岡県大宰府生まれ。

木更津 南清苑の皆さんが、年賀状受付が始まった日・今年の田んぼ体験野お礼に・絵手紙年賀状を持ってお礼に来られた。 2017年12月15日 南清苑では、来年の1月中旬に餅つきを計画中とのこと・道具は、すべて揃っている。

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Dsc_0010_1280x867_2心のこもった絵手紙年賀状は素晴らしい・・・ありがとう。そして、サポートをしていただいた小島直子さん・三條場洋子さん・淵田さんご夫婦に感謝。

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来年の1月の中旬に南清苑では、餅つきを計画している。3年前の12月に中尾の家で餅つきを行った。その時の映像とブログ記事を紹介。

YouTubeから見る・最初の餅つき開始。

YouTubeから見る。最後にお正月のお飾り餅をつく。

初めてのお餅つきなので、平野すずゑさんに前日から泊りがけで来ていただきよる遅くまで、準備をおこなった。  当日は10時から開始・総勢18名。  平野すずゑさんの指示に従って順調に準備が進んだ。  途中から平野克彦さんの参加で餅つきの技を伝授。  みんなで、お餅を食べながら無事、お正月のお餅が出来上がった。 初めての親子でお餅つきは、天候にも恵まれ、人にも恵まれ、楽しい1日になった。  この餅つきは、道具の手配・火燃し・餅つきにと、全般にわったっての淵田弥吉さん協力で実現した・感謝。

樹齢約80年のヒノキ(約50本・高さ30メートル)・その利用法のアイディアは・・? 木更津市伊豆島の元屋敷跡の景観の再生は・・?

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Dsc_0007_1280x853_2ヒノキ山

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Dsc_0020_1280x853_2伊豆島元屋敷跡約1200坪・画面左上がヒノキ林

Dsc_0019_1280x825_2伊豆島元屋敷跡約1200坪一番奥から入口方向

Dsc_0023_1280x853_2伊豆島元屋敷跡入口にある物置コンテナ

Dsc_0022_1280x853_3伊豆島元屋敷跡北側には、椿・田窪恭治作 ヤブ椿は、このツバキを描いたもの。

 

605_1024x576伊豆島の藪ツバキ(千葉県木更津市伊豆島)

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フランス・ノルマンジー・林檎の礼拝堂近くの林檎

 双子座流星群を寒さの中観測 中尾の家は,東南の空が一望 オリオン座の周辺を11時過ぎから15分ほど観測・一等星ぐらいの明るさの流れ星3個・暗いのを5個。2017年12月14日

youtube で検索すると、プロ顔負けの動画がたくさんアップされていた.・中には、リアルタイムの中継映像もあり約100人ぐらいの人が観ている/素晴らし…感謝。

2017年12月13日 (水)

田窪恭治 大型壁画・イイヅナの林檎を制作/この日の夕方に完成・町民の皆さんから祝福。(2015年秋) 長野県飯綱町アップルミュージアム

2015年秋・田窪恭治 イイヅナの林檎 巨大壁画制作/撮影・編集・尾高俊夫

 

長野県飯綱町・いいづなアップルミュージアムを空撮(撮影・小杉武)。飯綱町は、日本一の林檎の町。

 

この近くには、有名な、サンクゼールワイナリーがあります。(撮影・小杉武)

信濃毎日に田窪氏の活動が紹介された・信濃毎日 2016年4月30日刊

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017_1024x683林檎の花の壁画を描いた場所は、飯綱町下赤塩の北信五岳を一望する 一面の広大な林檎畑の中の、今回壁画を書いた林檎の木・その前に田窪恭治氏に立ってもらった。  この場所は、日本一の林檎の町を宣言するにふさわしい素晴らしい環境だ。

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林檎畑の向こうに北信五岳の一つ斑尾山1383m

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021_1024x683林檎畑より見下ろす中央の建物は、三水第2小学校

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昨年に林檎の壁画を書いた場所。この周辺の林檎の木を組み合わせて壁画を完成させたとのこと 030_1024x683

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015_1024x683今回の林檎の壁画は、現在、飯綱町の牟礼駅に展示されており、現在はいいづなアップルミュージアムに、林檎の壁画と一緒に展示。

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065_1024x683_2この日は、町会議員の石川さんの案内で、林檎畑を観て回った・感謝。

2017年12月12日 (火)

Le Pommier d’Or TAKUBO 田窪恭治 黄金の林檎 制作過程5分に短縮版Heart Institute for Sustainable Futures(SHISF)聖心グローバルプラザ

Le Pommier d’Or TAKUBO Heart Institute for Sustainable Futures(SHISF)

撮影協力・三條場洋子・2017年12月6日撮影・聖心グローバルプラザ (music/Jingle Bells CalmKevin MacLeod )

2017年12月10日 (日)

Le Pommier d’Or TAKUBO 黄金の林檎 田窪恭治 Heart Institute for Sustainable Futures(SHISF)聖心グローバルプラザ

撮影協力・三條場洋子・2017年12月6日撮影・聖心グローバルプラザ (music/Jingle Bells CalmKevin MacLeod )

伊豆島の元屋敷跡の整備も整ってきたので、トラックがどこまで使えるかのテストを行った・ぬかるみにはまってしまった。

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隣の尾高康雄さんが気軽にチェーンブロックを使ってぬかるみから引き揚げてくれた・感謝・・・・。

Dsc_0001_1280x853チェーンブロックを使ってぬかるみから引き揚げ,4駆の軽トラで引っ張り 簡単に引き揚げた。

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木更津・中尾に初氷 2017年12月10日

2017年12月 9日 (土)

82才のプログラマー 若宮正子さん ただただ素晴らしい。

https://youtu.be/c-HDVelw0Rw

2017年12月 7日 (木)

田窪恭治 黄金の林檎ギャラリートーク今回は小学生83名 聖心グローバルプラザにて2017年12月6日 写真撮影及び著作・三條場洋子

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この日は、小春日和の穏やかな1日、撮影が終わってから、近くの明治外苑のイチョウの様子を観に行く。

Dsc_0014_1280x853イチョウの葉は、大部分落ちていた。

Dsc_0009_837x1280_2御所脇の街路樹

Dsc_0007_1280x826_2御所内のイチョウは、日を浴び輝いている。

2017年12月 4日 (月)

孫のしょうちゃんの7歳のお誕生日(横浜の弘明寺の家で) 2017年12月3日

Dsc03561_1280x719孫たちが来る前の静寂

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