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2017年12月26日 (火)

上総の郷学(ごうがく・きょうがくともいう)について。 志徳堂(しとくどう)物語・至徳堂を知る会編・著 平成29年12月1日・やまがら企画発刊(今から200年前の西上総で始まった先進的な庶民教育の場)

Dsc_0001_934x1280_2   志徳堂物語 平成29年12月1日発刊・やまがら企画

◎この関連記事をネット検索を行った。

千葉県のHPより

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かねだしょうこう文政6年(1823)の扁額に「金田庄黌」とあり、文政7年(1824)の扁額には「至徳堂(しとくどう)」とある

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しょうがくがんげい

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明治維新によって急速な近代化に成功した理由の一つとして、江戸時代の末までに、すでに広範な教育が普及していたことがあげられる。 それを担ったのが幕府の昌平坂学問所から藩校・私塾・郷学・寺子屋やまでの様々な教育機関である。郷学は庶民の指導者教育を担った教育機関で、なんらかの公的保護・監督を受けた点が寺小屋と違っている。

 金田庄黌(かねだしょうこう)は近隣の庶民を教育する目的で、文化14年(1817)に名主の願いにより、現在の木更津市高柳小字塚之腰に設立された郷学である。文政6年(1823)の扁額に「金田庄黌」とあり、文政7年(1824)の扁額には「至徳堂」とある。金田庄黌あるいは至徳堂と称されていたことは明らかであるが、その使い分けや前後関係の事情は明確ではない。教授、助教、館頭、館正などの職掌があり、郷学としての組織が整えられていた。

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高柳銚子塚古墳(南北に全長142mで千葉県第2位の大きさの前方後円墳)左に内房線の線路 戦前に鉄道を通すために銚子塚古墳の前方部分が破壊され、また戦争中は、高射砲台座になり破壊され、戦争末期には、鉄を回収するために爆破したので、このように真ん中が吹き飛んでいる。

Img_1写真上が北・すぐ左側を内房線の線路(ネットより転載・感謝)。

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高柳銚子塚古墳にある至徳堂関係の石碑

扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。

扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、体育館、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。特に神社に掲げられている額を「神額」、寺社に掲げられている額を「寺額」という。扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある

 資料は、設立や経営・行事にかかわる文書9点、教科書や教授関係者の蔵書であった典籍9種72点、扁額2点である。以上は、千葉県のHPからの転載です。感謝。

関山邦宏氏の画期的な研究発表・上総の郷学至徳堂について - 和洋女子大学学術リポジトリ https://wayo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common... 関山邦宏 著 - ‎1989 ネット上にPDFファイルで公開されています(18ページあります)

千葉教育』第四八七号、 昭和七年) によって、 現在まで伝えられきたとい っても過言ではないだろう。 ちなみに、 「広範で丹念に克集. された資料をもとに、 客観的で真摯な態度に立脚して編集ないし執筆された内容を糾z少」 教育史の 一 といわれる 「千葉県教育史』 はそ. の 「巻一 」 (昭和十 一 年) で至徳堂にも言及群鴉 (三八八頁以下) が、 その記述内容は鈴木論文のほぼ全文引用と若干の関係者の略伝で. 構成されている。 また市政施行:干周年を記念して刊行された大著 『木更津市史』 (昭和四十七年) もほぼ同様 ...

◎至徳堂関係資料・木更津市立図書館HPから観ることができます。

http://www.city.kisarazu.lg.jp/resources/content/40713/20140618-111337.pdf

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この2枚の写真は、クリックすると拡大し、フリガナが読めます。

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◎郷学とは・・? 「きょうがく」と読む説も有力。郷校、郷黌(ごうこう)、郷学所、郷学校、明治期には義校とも称した。江戸時代から明治初年にわたって存在した武士・庶民のための領主公認の教育機関で、次の三つに大別される。

〔1〕藩が領内の僻地(へきち)に、また藩主の支族・重臣らの所領に設けた陪臣のための学校。会津、秋田、盛岡、萩(はぎ)、佐賀、熊本など辺地の大藩に例が多い。

〔2〕藩主・代官、民間有志が庶民教育のために設立し、藩主や地頭(じとう)がこれを補助したり、嘉納して保護・監督にあたって運営した学校。岡山藩が1668年(寛文8)領内に設けた手習所(123か所)の例が古く、有名である(のち閑谷(しずたに)学校に統合)。

〔3〕これらのなかで、とくに民衆の自主性や内発性に支えられて設立された庶民のための学校で、民衆が公的教育を要求する運動の所産とみられるもの。

 いずれも儒学を中心に、文武あるいは書算を授け、未成年者、成人を一体的に対象とした生涯教育型のものが多い。全期間を通じ、全国に1000余校の郷学が設立されたが、多くは明治初年に集中している。

 いわゆる第三種郷学とよばれる〔3〕の代表例は、摂津国平野(ひらの)郷(大阪市東住吉区)の含翠堂(がんすいどう)(当初、老松堂(ろうしょうどう))で、1717年(享保2)郷民の教育機関として設立され、1872年(明治5)の学制頒布まで続いた。

中世末の自治都市平野郷町以来の、地域の有力者からなる同志の寄金により維持されており、大坂近郊在郷町の商人地主層の教育文化活動の一環である。かたわら賑給(しんきゅう)料とよぶ基金を備蓄し、飢饉(ききん)時の救済活動も行っている。含翠堂では、以下のような、次の時代の公教育につながる諸要素が指摘されている。

(1)その教育は儒学が中心であるが、特定の学統によらず、町人としての実践道徳に重点を置き、封建的身分制を超えた人間性の問題を提起している。

(2)設立維持者と教師とが分離している。

(3)教育は教師に任されている。

(4)経済的基礎は有志人民の共同出資によっている。

(5)権力に公認されている。

 学制に先だつ1869年(明治2)京都の町組により設立された小学校、71年開校の武蔵(むさし)国南多摩(みなみたま)郡小野路(おのじ)村(東京都町田市・多摩市)の郷学などは、いずれも地域の有力者たちが、新時代の人材養成のため設立・維持したものである。

小野路郷学からは後年の多摩自由民権運動の指導者たちが育っている。郷学の内容は多様であるが、全般に支配者層の教化策によるものも多く、民衆の教育要求や、運動の評価については、今後の研究にまたれる。

しかし郷学は、明治期「学制」以後の日本の公立学校や公教育制度の前史に一定の位置を占めるものであった。

[木槻哲夫] 『津田秀夫著『近世民衆教育運動の展開』(1978・御茶の水書房) ▽石島庸男著「京都番組小学校創出の郷学的意義」(『講座日本教育史2』所収・1984・第一法規出版) ▽石川謙著『日本学校史の研究』(1960・小学館) ▽文部省編『日本教育史資料 3』復刻版(1970・臨川書店) ▽梅渓昇・脇田修編『平野含翠堂史料』(1973・清文堂出版)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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